私は吹奏楽部を経験することで、日本の全ての問題の根本は、
部活動でたかだが一年間だけやっただけで、ただ進級したというだけの理由で
下級生指導をやらないといけないことだと思っているんです。
吹奏楽でいうならたかだか一年やっただけで吹奏楽とは何なのか、合奏音楽とはなんなのか、教育心理学も指導のやり方も何も教えられる解らないまま下級生指導をやらないといけなくなる、
一応の理由として
「ついこの間まで自分がどんな言葉をかけてやればいいか、言葉をかけられたかったかを覚えているうちにそれを下級生に」
てことなんだろうとは思うんですけど、また一方で
「下の者に舐められたら終わりだぞ」
なんて言われるから訳がわからないまま高圧的になるしかなくなる。
もちろん「いい先輩」てのがいるのは確かなんですが、それはその人個人の資質であって組織的教育の結果ではないからその人がいなくなったら途絶えてしまうのです。
これ、部活の下級生指導だけでなく、社会人としての新人教育でもそうですよね。
企業によっては管理職になるときに研修を受けさせるところもありますが、効果があるのかないのか、そういう会社で働いたことがないのでわかりませんが、
このことはもう何年も前からSNS に書いていて、明らかな反対意見というのは付きませんでした。
付かなかったから真相ってわけではないとも思っていますけど、今になって
「多くの人は自己肯定感と自己評価を混同しているのではないか」という指摘があって、なるほどこっちのほうが吹奏楽では説明が易しいなと。
自己肯定感は、一般的には幼少期から親から無償の愛を受けることで自分はこの世界にいてもいいんだ、という「親の無償の愛」以外には一切の根拠がないものと言われていますが、吹奏楽文化で考えてみると、
演奏が上手くない、はっきり言って下手だ、上手くなりたいかといわれたらそりゃ上手くはなりたいけど、難しいこと、困難な練習解決方法を言われたらそれは採用しない、でしょう。
私が高校生の時吹奏楽部でなくクラスでバンドやってる奴が
「音楽はスポーツじゃないんだから競うものではない」
とどや顔で言ってたんですが、そいつの真実はともかくとして、
「音楽は楽しければそれでいい」
というのは一つの考え、立ち位置としてあるわけですね。
これが自己肯定感です。
しかし演奏が下手であることが嫌で(自己評価が低い)なんとか上手くなりたいと頑張る人は、その努力の難易度が自己肯定感の低さになるわけです。
で、私がこのブログ、あと分かれちゃったけどサイトを始めたときに
「芸術スポーツって、何? 」エトワール・ブックスて本を手にしまして、
スポーツにも体操、新体操、シンクロナイズドスイミング、飛び込みなどのように、武道やバレーやバスケットボールとは違うスポーツがあり、美を追求する芸術スポーツてのがある、そこで世界的に有名な選手達は「勝ちたい」はありますが、それ以上に
「もっと表現力が欲しい!」を願っている、
自己評価が低いとか高いとかではなく、もっと高めたいと思っている。
(あとこのジャンルの人達って、会場で自分の前の選手が失敗すると自分もそれに引きずられるように思える、前の選手が成功すると自分も成功するように思えるので、案外蹴落とすとか他人の失敗を喜ぶなんてのは少ないという話もあったり)
あとSCAJ というコーヒーにまつわる博覧会みたいなイベントがあるんですが、美味しいコーヒーを入れる選手権てのがあるんですね、とてつもない才能を持った人がとてつもない練習、努力を重ねてトップを目指すんですが、そういう人達がサービスイベントで来場者にコーヒーを入れたときの味が、私には
「コーヒーなんて、好きに入れればいいんですよ!」
って感じるんですよ。
コーヒーが好きな自分という自己肯定感は高く、コーヒー選手権でトップを目指すという自己評価の低さが同居してるんじゃないかと思うんですが、
コンクールで万年地区大会予選敗退で、それでも心の中はともかく「ま、こんなもんでしょ」と練習方法や行動を変えようとはしない人達、
自己肯定感が高く、自己評価は低いというのが日本の吹奏楽の現状なのかなと。
自分が、自分の思うように演奏できるようになれれば自己評価も満足とすると
「これでいい、と思ったらそこで終了」
てのは呪いなのかもしれない。
「これでいい」と思えた人が今まで一人もいなかったとは思えないのだけど、その人は言葉を残していないんじゃないか?