実は詳しくないです。(_ _)
えと、一昨日は「木戸銭をもらってすごいモノを見せる場」の役割が
科学技術の発展によって変化してしまい、時代の変化にともなって
見せ物小屋から博物館に主導権が移った話しを書きました。
そこから現代のコンサート・ホールまで書かないと。
明治時代になってからも演劇や音楽を披露していた小屋には、そういった面では変化がありませんでした。
(歌舞伎の世界では新しい作風が発表されたりして、今後のあり方が議論されたことが皆川博子さんの「花の闇」に書かれてます)
音楽でも洋楽の奏者を育成することとか、新聞では音が伝わらないとか、
音楽が産業の発展に直接は関係しないとか、いろいろありまして、土着の所では小屋のあり方は小屋主の器量以上のものにはならないわけです。
今でも裏方さんにキチンと挨拶しないと本番中に天井から金槌が落ちてくるという冗談や、どんなに威張っている女優さんでも照明の人だけには愛想良くするというような、現場第一・作品主義の姿勢は変わりません。
レコードがどれだけ作られるようになっても、演奏にまつわる意見は
評論家の仕事であり、小屋主が思案して世間に発表することはなかった。
かといってそういったことに無関心だったのではなく、その小屋に長く
勤める人が若い役者・演奏者に「先達はな、」といった感じに口伝では
残していたと思います。そういった情報の独占が…惜しいなぁ。
んで時代を一気に現代まで飛ばします。
管弦楽団や一部の吹奏楽団が、二百年も昔の遠く離れた異国の地の、
お金に関する価値観や経済システムの違いを一切無視して行政や民間人に
対して「欧米では・なら教」の布教に躍起になっていますが、現代の
小屋主達は(そこまで大声では?)言いません。
経営責任は自分たちにあることを自覚しているのですから、当然です。
うちの近所は沢山の映画館があったのですが、ほとんど潰れました。
去年だか一昨年だか、福岡の方で洪水があり、歴史ある大きな演件黷ェ
水浸しになって休業を余儀なくされたのですが、経営者が自分で金策に
走り、名の知れている券\人が何人もそこでボランティア公演をやって
みごとに営業を再開したとニュースの特集で見たことがあります。
商売人には「目利き千両」という言葉がありますが、品質を見抜くだけ
ではなく、撤収するか、まだふんばるか、という選択眼にも使われ、
右せんか左せんかという判断と責任がいつも問われているのです。
そして最近、町おこし運動や一村一品運動などの本を読んでいると、
実は昭和の中期、もしくは後期に、別の分野で猛烈な価値観の変化が
起こっており、その波に乗れた小屋と乗れなかった小屋があったのでは?
と思える出来事がありました。
それは「都市計画」であります。