離れていて、くっついている
レンタルビデオ屋さんにて「攻殻機動隊S.A.C.2nd GIG 08」を借りてきまして、NO.15「機械たちの午後」を見ていましたら、
昔深夜にやっていたアニメ「serial experiments lain」で扱っていたテーマを採り上げておりました。切り口は別でしたが。
思い出したのは故・星新一氏の言っていた、
「SFはどんなジャンルからも離れている」
であります。
SF作家がいろいろ調べて、科学のことだの経済のことだの、いろんな分野のことをまな板に挙げても、その道の専門家達の反応は
「あれはSFだから」
とそっけなく、ほとんどの専門家が真面目に向き合ってくれなかったことを昭和4、50年代のエッセイに書いていました。王宮の中の道化みたいなもんか、と。
ところが星氏、それだけでは終わらず、同じ時期に盟友の小松左京氏が星氏の発言を知らず、全然違う場所で
「SFはどんなジャンルともくっつくことが出来る」と発言していたのを聞き、面白がっておりました。
どんなジャンルからも離れているからこそ、どこのジャンルともくっつくことが出来るのだろう、と。
上の二つのアニメで採り上げていたテーマというのは、第○次世代コンピューターの基本理念は、人間の無意識の構造に酷似している、という着想です。
「serial experiments lain」では人間の無意識の構造を第○次世代コンピューターの設計図に応用したとしていて、
「攻殻機動隊S.A.C.2nd GIG」のこの話しでは
『その行動を決定する因子は、自身よりミクロな、あるいは集団を越えたマクロなレベルに存在するということを言い当てているようなところがあるってことさ』
『難しいなぁ』
『簡単さぁ。人間がその存在を決定づける以前には存在していなかったネットの有り様が、彼らの神経レベルでのネットと、いまや地球を覆い尽くさんとしている電子ネットワークの双方によって、自身の意思とは乖離した無意識を、全体の相違として緩やかに形成しているってことだよ』
と話しを進めております。詳細は作品を見てみてください。
んでさらに別な要素を引っ張ってきまして。
世の中には「小説の書き方」をテーマにした書籍が多数作られておりますが、その中のかなりの割合に、
話しが始まって出来るだけ早く、その物語の世界観を読者に解らせるように、ということが書かれております。
ホームドラマ系なら事件は日常の範囲内で、暴力描写も性描写もほどほど
推理小説系なら機械仕鰍ッのように精確なロジック
冒険小説ならハラハラドキドキ、
そんな世界観であったり、時代設定や各登場人物の価値観など。
ドラえもんでは子供の世界ですので暴力描写はジャイアンのゲンコツ、いやらしい場面と言ってもしずかちゃんの入浴シーンまでというような、
物語の世界観に収まる範囲って、自ずと限られるのだから、作家はとっとと読者にそれを示せってことでしょう。
そりゃサザエさんの話しの中で無意識がどーの、哲学がこーの、なんて話題は出てきませんし、乗せられないでしょう。
そんな世界観のお約束事をすっ飛ばせるのは、SFかパロディくらいでしょうね。
んで吹奏楽。
吹奏楽はどんなジャンルの音楽でも演奏出来る、という意見がありまして、その相手のジャンルからまともに相手にされないという点はSFと同じですが、SFは星氏の活躍していた時期に比べても社会的地位や社会への影響力が強くなっています。
しかし吹奏楽は未だに地位も力も無いです。
SFは作家が個人的に多分野の本質にきちんと目を向けてそれを取り入れるための努力を怠らなかったのに対して、吹奏楽は演奏者個人が演奏技術の向上・維持に手一杯で、他ジャンルの本質には目を向ける暇がなかったんじゃないか、とか、いろいろ考えられますが、
軍楽隊にはあった「生きるか死ぬか」、人としてギリギリの状態があったのにそれを除いてしまったとか、演奏一つで路頭に迷うかどうかの切羽詰まった状況が無いとかで、
大した世界観を背負えないジャンルなのかなぁという気もします。
書いていてわけがわからなくなってきた…。(;_;)