ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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価値の説明

「件pと権力の関係」が話題になるとき、偉い評論家先生の話の中では

フルトベングラーナチス・ドイツの関係や、

ワーグナーとルードヴィッヒ2世の関係が念頭に置かれていないかしらん。ネガティブな関係では大東亜戦争中の山田耕筰と軍部の関係とか、

モーツアルト・ベートーベンまでの「貴族・王族の使用人としての作曲家・演奏家の地位」とか。

クラシック音楽の文脈の中ではこれらの関係を機軸として論を始める姿勢はごく普通のことなんでしょうけど、

千利休の故事を読んでいると、利休と織田信長豊臣秀吉の関係を目指す音楽家はいないのかしらんと思ってしまいます。(^^;)

(少なくとも「一期一会」という言葉を使っている人が、千利休のこと、茶道のことを知らない、なんてことは許されません。言葉の意味は変わっちゃってますけどね。戦国時代と現代とでは意味が変わるのは当然。

けれども原理主義者の姿が全く見えないってのも、淋しい)

もちろん利休は茶室に於ける音曲のあり方は言ってなさそうですし、現代の諸流派も、利休の時代ほど権力に意見は言えないでしょうけどね。

まぁ目標として。

「敷居の低い演奏会」を目指す人が多い中、権力者とか政治家に向けて、

教養や美意識、羞恥心を刺激するような演奏を志している人なんて、いませんかね。

あと茶道の歴史を読んでいると、優れた茶人って

・直接人をもてなす

・新しい価値(もてなし方)を生み出す

・用品を細かく注文し作らせる、の他に、

・自らの「目利き」で品に値段をつける、ってのもよくある話しです。

クラシック音楽家や評論家、演奏の良し悪しは判断しても、自分で演奏の値段をつけること、しませんね。

演奏家が「(他人の)この演奏が聴けるなら、自分の愛器を譲る!」

なんてことは、しないでしょう。

戦国時代には茶碗一つに国一つ差し出すって話しがあるようですし、現代でも大変高価な値段が付けられているものも、あります。

極端な話しですが、何億円もする愛器のストラディバリウスを譲ってでも聴きたい!って程の価値が演奏にもあるんだ、ってことを、演奏家自身が思っているんですかね。

まぁフルトベングラーの熱狂的なファンは、クリアな音質のレコードがあるんだったら、全財産を投げ出しても聴きたい!って人がいそうな感じですが。

そういう失われた物ではなく、現代人の手に入る範囲内で。