視点が卑屈
岩波書店から発行されている雑誌「波」2005年4月号を読んでいたら、
椎名誠さんの食についての文章に
「エスキモーはなんでも生で食べる。そもそも「生肉を食べる人」のことをエスキモーという。それは差別語というので、いわゆる西側の国の人が勝手にイヌイットと呼ぶようにしているそうだが、当のエスキモーはなんで勝手にそんな名にする、と言って怒っているらしい。」
と書かれています。
私が
「『エスキモー』という呼び方は、本当は良くなんだよ」と初めて聞いたのはテレビでケント・デリカット氏がなんだかのテレビ番組で言っていたのを聞いたときで、
そのときは「ふーん、そうなのかー」としか思わなかったのですけど、
椎名氏の文章を読むと、真実はどこにあるのでしょうね。
発音なんかで「言語発音主義」を率先している人達をたまに見ますけど、
よくわかりません。
差別についての社会提起は「ちびくろサンボ論争」がありますけど、
NHKで海外の黒人の人にインタビューしたら、やはり「ちびくろサンボ」を読んで悲しい思いをしている黒人がいることが放映していて、
少なくとも私の周囲の人達(のさらに周囲にも)に黒人もエスキモーもいませんので、
結局よくわからないままです。
んで日本の右翼の中には、「日本」という国号を嫌がっている人達も、案外多いそうです。
理由は、日本という国号のもとは「日拠る国」という発想らしいのですが、別に太陽は日本の土から出現しているわけではない、
『中国から見て東に位置する国』という点にあるそうです。
自分のいる場所を中心にしている発想ではなく、外国中心の発想が国号の基本というのが嫌なのだそうです。
(ちなみに「日拠る国」→興隆を迎える、「日没する国」→没落を迎える、という発想は
中国が隋の時代だったとき、別に何の問題も無かったらしいです。
単に方角の問題であり、太陽信仰では無かったので。
煬帝が激怒したのは「天子」を名乗ったことだそうです。
聖徳太子(当時厩戸皇子)や日本人の解釈も、なんか屈折してますねー)
この「視点のヘンテコリンさ」がどう吹奏楽に関わるかは、明日。
無茶苦茶頭が痛い。(;_;)