反対の賛成
以前に、12月頃でしたかな、「やれば出来るという言葉の反対は」ということを書きました。
「やる」という言葉の反対の「やらない」、「出来る」という言葉の反対の「出来ない」、
これらを組み合わせが可能でして、「やれば出来る」という言葉の反対は一つではないのがわかります。
んで今日は。
「自己満足」なんざ、どうでしょう。
「自己」の反対の言葉を「他者」としまして、「満足」の反対の言葉を「不満足」なんて言葉にしますと、
「自己満足」「他者満足」「自己不満足」「他者不満足」なんて言葉が現れます。
「他者満足」てなことを言いますと、あなたあっての私の行動、なんて感じがしまして、
売れてナンボ、まさに倹lの言葉ですな。
「自己不満足」。「自己懐疑」でも良さそうな感じです。
んで「他者不満足」という言葉、これはダメダメとか意地悪、「お前なんか、満足させてやんねーよ」とかの
悪意が感じられまして、あまりよろしそうじゃありません。
哲学の世界に「私は何一つ知らない!」なんて言葉がありまして、
すると意地悪な奴がそれを聞きつけ、
「嘘つけ!『私は何一つ知らない』ということを知ってるじゃないか!」
なんてことを言うもんですから博士も面白くない。
何て言うか考えまして、
「私は何を知る?」
という疑問文になりました。
ホントはそんな意地悪な奴の言ってることなんて聞く必要がなく、
論理学の偉い先生などは「自分のことは棚に上げていいんだよ」ルールを言っております。
「私は何一つ知らない」を反対にしてみますと、この文脈では「私は何もかも知っている」になります。
この「何もかも知っている」人に対して何か教えてもらおうと質問するとき、
「あなたは『何もかも知っている』ことも含めて知っているんですか?」
なんて聞いても、全く意味がありません。というか、面白くもなんともありません。
せいぜいその人の自尊心を満足させ、笑顔を見せて貰うことで質問者がプラスの感情を引き起こす、それくらいでしょう。
それよりも「宇宙に果てはあるんですか」とか「不老不死になるためには」とか、
「何もかも知っている」というまとまりの下にある、具体的な何かを教えて貰うでしょう。
ですので「何一つ知らない」というのもまとまり、括りの意味でありまして、
偉い人を試すとか、意味の差異を面白がっているのか、わざとやっているのならいいんですけど、
本気になって「『何一つ知らない』ってことを知ってるじゃないか!」というのは馬鹿丸出しです。
わからないのならせめて、
「『何一つ知らない』の『何一つ』の中には、『何一つ知らない』ことを知っていることは含まれないの?」
と疑問系でいきましょう。
さて、話しを途中に戻しまして。
「私は何を知る?」という言い方って、文学的ですな。
ならば音楽家は、「自己不満足」という言葉でなしに、
「私はどうやる?」という音楽的な文言を、実際に口に、文章にどんどん出して欲しいですな。
「当たり前のことじゃないか!」と思う人が多いでしょうけど、
「自己満足」とは「私はこうやる!」という「終〜了〜」と同義で、
「自己不満足」は意識的に、「自己満足」はツイやってしまうものですから。
もっと徹底して使って欲しいものです。ハイ。