イデオロギーの具現化としての吹奏楽
某イデオロギーを解説した文章にて。
・自分の内部から、自分の充実から自らの価値を感得する
・外部に基準をおき、そことの比較によって自分の価値を量る
という区分があるそうです。
音楽をやりたくて吹奏楽部に入る人が前者、
誰かの役に立ちたいとか、どこかに帰属意識を持ちたいと思う人は後者でしょう。
吹奏楽が今現在、新思考を選ぶか、既得権益を守るかという二者選択を迫られているということはないでしょうが、
・自分の内部から、自分の充実から自らの価値を感得する
に相当する、音楽の本質で豊かな文化を創るよりも、
・外部に基準をおき、そことの比較によって自分の価値を量る
という日本社会の縮図を前提としている「伝統性」があると、私は思います。
もっと違う言葉で言えば、
・衝動の発露として“演奏”という方法をとるけれど、合奏をする場合、共演者と「約束事」を決めなくてはならず、その点で身勝手なことは出来ない
・社会の「約束事」(人間関係も奏法も)を身に付けてから“演奏”の魅力を発揮する。
だから「自分の内部から、自分の充実から自らの価値を感得する」価値観を
吹奏楽で本気で広めようとすると、主流派から弾圧されるか、徹底的に無視されるか、どちらかになると思うのですよね。
資本家にとっての理想の労働者って、給料のいらない労働者だそうです。
しかし現実にそれは不可能だから、正当な報酬よりも低い賃金で働く労働者を育てる社会常識を作りました。
もちろんそういった労働者の存在が資本家のみならず、社会の発展に必要不可欠なわけですけど。(社会資本の蓄積)
資本家にとっての嫌悪すべき人って、金銭を度外視する人とか、金銭の必要性を認めない人ですね。
コストや経費を考えない人(内部の人)や、どんなに高額な報酬を提示されても契約しない人(外部の人)とか。
コントロールの効かない者は会社や社会の計画を自負する資本家や政治家にとって、脅威なわけです。
だから学校教育や社会教育の場を使って
「外部に基準をおき、そことの比較によって自分の価値を量る」人材を育てる。
職業としての演奏家、指揮者、作曲家は、依頼に応えるために、あるいは依頼を受けるために活動をすべきであり、
どんなに高額な報酬を提示されても活動を断る職業人は許されない。
(「資本の論理」側の視点ですよ)
そういう人には「プロ失格」という言葉を使う。
「プロならば仕事のえり好みをすべきではない」と。
もちろん「自分の内部から、自分の充実から自らの価値を感得する」件p家は、
そんな「資本の論理」に従わないでしょうけど。(海原雄山とか)
まぁ吹奏楽も、既得権益を守るのであれば「伝統」を守らないわけにはいかないんだけどね。
「伝統」を大切にするあまり人口が先細りしていくのが問題だ。
まだ当分大丈夫だろうけど。