ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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えこまさん、ありがとうござます。

えこまさん、こんばんわ。

私は、行為者が対象者を自分達の常識が通用しない人としているときに、

その異なっている度合いを

「どこかしらこっちに都合の良い程は知っている・こっちに都合の良い程度知らない」

に設定する人と衝突するようです。

えこまさんは「初心者入門編仕立て」という感触を持ちながら、それでも

狂言の“き”の字も知らない、全くの無知の人や、

自分の話している内容や筋を、違(たが)えて受け止める存在は、想定していないと感じたのですよね。

しかし、“詳しい”の反対は“知らない”だけでなく、

“違う”という要素もあるはずなのです。

もし私が子ども時分、生まれて初めて狂言の舞台を観に行って

「ひらたくいうと、室町時代の「吉本新喜劇」のようなもの」と解説されたら、

「ぱちぱちぱんち」とか「かいーの」といった類のギャグがいつ出るかいつ出るかと

心待ちにしてそのことばかりに神経を集中させ、最後にャJーンとしてしまい

「あの解説はなんだったんだ?」という疑問だけを胸に帰宅するはずです。

私は、わからないことは素直に質問します。

その時に返答や解説をして貰えれば、素直に受け止めます。

それでもわからなければ再質問しますが、結果理解出来なくても、

「私の頭が足りないから理解できないんだ。この人がこんなに“親切”にしてくれる以上、理解出来なくて放っておいても、世の中には良いんだ」

と思うようにしています。

しかし私の人生、質問すると怒られたり無視されたり「自分で考えろ」と答えて貰えない場合が圧涛Iに多いのですよ。

そのとき、私は自分で調べ、考えます。

そしてその結果、相手にしてみたら誤解であろうが偏見であろうが困惑だろうが激怒ものであろうが、知ったこっちゃありません。

「自分で考えろ」と言われて独力で辿りついた結果は、

誰がなんと言おうが“この考え”が正しいんだ、と思うようにしています。

えこまさんが

>>もうひとうひとつどこがどうのと言いませんが

と思った通り、私は自分でもinputもoutputも、世間一般で言うところの「まともな人」ではないと自覚しています。

ですので「空気を読む」「腹の探り合い」「言わずもがな」に苦しんでおります。

そのため行動が、自分でも思いもしなかった意外性とか、誤読から広がる世界観を面白がって、自閉した空間に書くことに収まっているのですが。

今回私はえこまさんの文章を読み、「こう解釈した」と書き、

「本獅ゥらも違うし、論点もおかしいよ」とご指摘を受けました。アリガトウゴザイマス。

しかし今回私はその会場にいなかったので逸平氏にしてみると単に迷惑でしょうが、

もし私がその会場にいても、逸平氏は私の誤解なんて、知ったこっちゃないとにらんでいます。

で私が失望して、あちこちで文句を言って、知らない人(狂言の“き”の字も知らない人、深い伝統を持っている事も知らない人)が聞いたら。

私は解説の任に、狂言人間国宝に匹敵する程の人を起用するくらい、

解説の重要さを考えて欲しいです。

>>「無知の論者」としか感じようがありません。

(^^;)

「ペンギンの国のクジャク」という本は、お読みになりましたか?

ペンギンは危機感を募らせてるとはいっても、

クジャクや「無知の論者」の意見を試すことなく却下する余裕は、まだまだあるようです。

「駄目だから却下(無知・既知は関係ない)」なのか、

「無知者の意見だから却下(駄目・大丈夫は関係ない)」なのか。

ペンギンは基本的に後者が理由です。だからといって、私も自分の意見が大丈夫なものとは、限りませんけど。

(^^;)