使ってみるとは
日本の伝統藝能が(規模の大小はともかく)続いている最大の原因は、
作品にあるのではなく、(家元)制度を作ったからだという文章を読んだ。
作っただけではなく、時の権力者とか、大衆などに認めさせることで
生き延びているのだそうだ。
吹奏楽はどうだろう?
生まれや由来はともかく、現在「制度」は、
社会性はコンクールで現実社会の競争制度に拠っていて、
演奏面はクラシック音楽に依存している。
すぐには思い浮かばない。
現実社会に対して非日常性をアピールする事でお客や人材を集めてるけど、
現実の中に吹奏楽性を発見し、そこから共感を育てていこうということは、
無いんじゃないでしょうか?
行進という文化は吹奏楽のほうで切り捨てているし。
プロは屋内に引きこもる一方だし、パレード文化も警察・消防・自衛隊は
担い手の一つになっているけど、別に今以上に盛り上げようとはしていない。
例えば町の共同体意識と市民吹奏楽団の調和意識なんて、近い物を
見つける事ができないですかね。
管弦楽なら吹奏楽以上の高度な技量を求められる→特殊な技能を持つ企業家が集まって店を作るに相当、
そんなに高くはない技量でも演奏出来る吹奏楽→商店街に空き地があるから、
とりあえずそこで店をやってみる、好奇心旺盛なその町の若衆、みたいな。
町内会費を払うお店の人と払わないお店の人と、団費を(以下繰り返し)。
払えなくてもすまなさそうにする人と、きっぱりと町内会費を払わない人と
団内の調和を(乱しちゃうなりに)尊重する人と、単に吹くだけで仲間意識なんてカケラも無い人との対比とか。
「R30::マーケティング社会時評」さんのブログに書かれた
「見慣れない場所のビジネス」を読んで
そう思いました。
管弦楽や吹奏楽の凄い人→あっちに行っちゃって、こっちを省みない人達、
吹奏楽の平々凡々の人→本来はあっちとこっちを行き来出来るんだけど、
あっちはあっち、こっちはこっちと割り切ってしまい、
あっちにいるときは浮き世を忘れ、こっちにいるときは現実主義に
思考のスイッチが切り替わって、交わらない。
惜しい。