ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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転換点の意味付け方

しばらく書き込みを休みます。

年始ごろ書いた本業のゴタゴタの応用編が始まったことと、

そろそろネタを見つけるのが辛くなってきたことがありまして。(^^;)

でも晦日という区切りなんで何か書いて休んだ方がいいかなぁと思って考えたんですが、

日本の吹奏楽の歴史を記述する場合、基本的に出来事を時系列で書きますね。

んで出来事の発端とか関わった人達のこととかで解説が付きます。

信号喇叭から演奏喇叭への転換点とか、

軍人向け演奏から一般人向け演奏、さらに演奏に耳の肥えた人向けの演奏など、

出来事について書いてあるわけですが、例えば軍楽に於いて、行動の指示を与えるための“信号”喇叭には、優雅さだの美しさだのは必要なかった。

指示がきちんと兵に届く大きさや歯切れの良さなどが一義的に必要とされたのであって、

思わず聞き惚れてしまうような音は、敵兵士の戦意を削ぐほどならば歓迎されたでしょうが、そこまでの才人は別段必要ではないわけで。

宣撫や慰問になり、聞く側の感性があってはじめて音楽性が必要となるのだけど、“信号”喇叭にそれが担えるかどうか。

しかしそこに、上手い下手ではなく、故郷のうた(メロディー)や思い出のうたが聞きたいとなれば、信号喇叭でも大丈夫なものも、あるわけで。

楽器を選ぶ音楽と楽器を選ばない音楽の境目なんて、考えてみるのには吹奏楽が一番なんじゃないだろうか。

他にも「行政に支援を求める楽団と、最初からあてにしていない楽団の系統の違いについて」とか。

東京市中音楽会とかデパート系少年音楽隊は解散するとき行政に支援を求めたのだろうか?

自分の才覚だけでやっていく商人気質で始まった楽団と、政治家に知古があって自信も腕前も対政治家・役人に交渉力も持っている人が幹部になっている楽団との違いとか。