ラベリングの思想
“比較”と“優劣”はイコールではないけれど、かなり近しい関係にある。
Z君がトランペットでBという曲を吹く。
Y君がトランペットでBという曲を吹く。
違いは、Z君とY君という人物の違いから生まれる諸々。
んじゃぁ
Z君がトランペットでBという曲を吹く。
Y君がサキソフォンでBという曲を吹く。
この場合は上記の違いよりも、使用される楽器の違いから生まれる諸々が人目を惹く。
んじゃぁ
Z君がトランペットでBという曲を吹く。
Y君が舞台上でBという曲のアナリゼとか作曲にまつわる話しをし始めたら?
上の二つは演奏という共通項で“比較”があり、“優劣”を付ける人は付けるだろうけど、三つ目には“比較”も“優劣”基本的には存在しない。せいぜいZ君の演奏を基準にしたら、Y君の話術、語り口という点で、“聞く人の心に訴えかける何か”の有無が焦点となるでしょうけど、まぁ強引な“比較”でしょう。
…私の書いていることに反応する人が少ないのって、比較対象者がいないからか?
まぁそれはいいんですけど、コンクールを否定する人、つまり「音楽は優劣をつけるもんじゃない」類の発言をする人でも、“比較”まで否定する人は少ないでしょう。
“比較”てのは「他人と同じことをする」から発生する。
他人と同じ楽器・同じ曲を吹くから“比較”される。
他人と同じ土俵に上がるから(器楽演奏)“比較”される。(だから全くオリジナルの楽器を発明して既製曲を演奏したら、比較される。そしてオリジナル楽器を発明してオリジナル曲を演奏したら、…演奏行為という点で“比較”されるわけだ)
だから、他人と同じことをやっているのに“優劣”を否定する心理って、その人の個人的心情はともかく、現実とは上手くやっていけないんじゃないだろか。
「私はチューリップとバラとに優劣は無いと思います」
結構です。間違っていません。
しかし現実社会にはチューリップとバラ双方に値段が付きまして、その心情とは全く別な価値観が複雑に絡み合っていて、基本的にバラという実物や単語からイメージするものとチューリップという実物や単語からイメージするものの違いが、一般論としての社会的地位、優劣だと認識されているわけで。
吹奏楽に書けているのは主観ではなく、客観・世論を作り上げる才能なのかもしれない。