ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

AutoPageが終了したので引っ越し

不道徳な

ちと映画のあらすじを探していましたら、

マイシネマ館さんの解説で興味深い指摘にたどり着きました。

TATTOO・刺青あり」の解説文で、

pict:right先にあげた沢田研二萩原健一内田裕也、そして宇崎竜童と犯罪映画の秀作の主演者にミュージシャン出身の俳優が期せずして並んだ。

 単なる偶然かもしれないが、非常に興味深い。

 彼らに共通した反権力的な個性やミュージシャン特有のフットワークの軽さがそうした役柄にうまくはまるのに違いない。

 また音楽(特にこの場合はボーカル)と映画(の演技)は肉体を使って表現するという点では非常に近しい表現形態といえる。

 表現するということにおいて音楽も映画も大きな違いはない。

 そしてもともと彼らは時代を読みとる鋭い感性の持ち主であり、吸引力の強い個性の持ち主なのである。

そんなところがミュージシャンから俳優に転じて成功する理由のひとつであり、彼らを優秀な監督たちが使いたがる理由でもあろうと思う。

 いずれも映画の中で実に輝いて生きている。 pict:left

吹奏楽の人たちは「実用音楽」と「観賞用音楽」の二分法をよく使いますが、「不道徳な音楽」という軸は、まぁ使いませんな。「不真面目な」なら、まぁありますが。

ここでいう「不道徳」ってのは別に性的な意味ではなく、狂気とか、不条理とか、閉塞間とか、時代や世間とのズレとかいろいろです。

吹奏楽にしろ管弦楽にしろ、「利潤の論理」で穀潰しみたいなことを言われると、「藝術の論理」でも言い返しますが、実のところ「組織の論理」の領域で言い返すことが多いと思うのですよ。大人数でやるものだから人件費がかかる、一人一人の育成費もばかにならない、大人数で最高の水準を発揮するのは保証が難しい、結果を保管できないので蓄積もままならない、などなど。

で、その「組織の論理」も厳しい基準をクリアした者を守るのであって、基準をクリアしないものや基準を維持できなくなった者には冷酷。

さらに日本人楽団員の著作を読んでいると、組織構成員の人格って結構高そうなんですよね。岩城氏や茂木氏は自分のことを面白おかしく書くけど、先輩や指揮者のことは悪く書かない。尊敬に値する人のことを書いてます。

シネマ館の人が指摘している「ミュージシャン出身の俳優」達も、別に歌番組に出ることでテレビ慣れして、それで俳優として成功したわけじゃないんですよね。狂気とか暴力衝動性とかいうような「不道徳」な感情を、歌や演技を通じて表現できるから成功したわけだけど、吹奏楽管弦楽の人たちって…管弦楽ではそういった表現方法としての曲ってありそうだな、吹奏楽の場合は「優等生の集約」でしょう。

吹奏楽の演奏会場に来る人たちはそんな「不道徳な曲」を聞きたくはないかもしれないけど、映画とか小説(文学)とか絵画ではキチンと引き受けているじゃないですか。

まぁ一歩譲って曲だとまだ難しいかもしれないとして、じゃぁ日本の吹奏楽人がサイトなりブログなりで「不道徳な」な思いを文章を通じて表現している人、いるんでしょうか。

私の文章に付き合ってくれる人なら感じているかもしれませんが、ここしばらくの私は

文章に塗り込めているんですけどね。

それに別の場所で書いていたら「薄気味悪い」なんて評されていたこともあります。

私自身は…まぁもうすぐパンクしそうな状態ですから、あっさり「狂人」に分類されても構わないんですけど、私とは別の、吹奏楽の突破口になりうる、才能ある「不道徳な人たち」が受け入れられる土壌は、出来ますでしょうかありますでしょうか。