ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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楽団は博物館ではない、か?

今日(2007年(平成19年)12月8日土曜日)の朝日新聞朝刊13版29頁文化欄に、

明治学院大教授で日本政治思想史の原武史氏が

鉄道博物館「マニア向け」最高を 時代背景や歴史学べる展示必要」

を読みまして、ふぅむと思ったのですが、その後講談社の販促用小冊子「本」2007年12月号を読んでいましたら、同じく原氏が「鉄道ひとつばなし」という連載をしていまして、

鉄道博物館を見学して」という一文を載せています。

同じことを書いているのですが、「本」のほうが朝日新聞より文字数が多いため、詳しく書いています。

pict:right展示車両の数は36両と、昨年閉館した交通博物館の9両から大幅に増えた。だが、マニア以外の客が多くを占めているのに、展示の仕方は事情にマニア向けである。車種の説明だけではない。車両の側面には、「ここを見よ 天井型ユニットクーラー」「ここを見よ コロ軸受」といった、素人には到底わからない注意書きが、あちこちに掲げられている。pict:left

…この指摘、クラシック音楽の解説書で楽譜を表示して、楽譜を読める人向けに解説している本にも当てはまるのではないか?続いて

pict:right例えば101系という電車がある。一昔前まで中央線を走っていた橙色の電車だ。ここで欲しいのは、車両そのものの説明よりはむしろ、この電車が走ってきた時代を客に対して解説することではないか。1968年の「新宿騒乱事件」、73年の国労動労の順法闘争に伴う「首都圏国電暴動」など、60年代から70年代にかけての世相を反映する出来事の渦中には、必ずこの車両があった。pict:left(以上、朝日新聞より引用)

「本」の方では

pict:right(略)世相を反映する出来事の渦中にあったことを、私はよく知っている。そのときにはまだ生まれていなかった川治さん(lzfelt注:同行した「本」編集部の人です)のような客に、鉄道を通した時代の一端を知らしめる発想が、なぜないのか。

要するにこの博物館は、車両フェチのための博物館なのだ。だから車両の細部に関する説明はやけに詳しい。(略:「本」ではここに「ここを見よ」のことが入ります)だが一部のマニアを除いて、そんな説明に喜ぶ客は一体どれほどいるだろうか。何か大切な点を忘れてはいないか。そう、鉄道とは人間を運ぶための手段なのであって、機械が勝手に動いているわけではない。あくまで人間が主役なのだという点を。pict:left(太字は引用者です)

うん、クラシック音楽の主役は作品、つまり曲そのものや演奏自体なんだ、という思想があるのは解りますが、それとは別に、お客が主役なんだ、という思想があるのも解ります。んでさらに、音楽とは演奏者とお客を繋ぐ架け橋なんだ、という意見だって当然あるはずです。

んじゃぁその「音楽は架け橋なんだ」の演奏者側の意見は「演奏が主役なんだ」と重なる部分があるので知るのは容易ですが、お客側の実像を把握するにはどうしたらよいか?

そしたらなんという神様のお導きか、本屋にそのいち解答を掲載した本があったのです。

津金澤聰廣・近藤久美 共著「近代日本の音楽文化とタカラヅカ世界思想社刊にて

塩津洋子氏が「明治期関西の音楽事情― 軍楽隊と民間音楽隊をめぐって ―」という章を書いておりまして、

日本の吹奏楽の歴史を読めば、明治時代に軍楽隊がもてはやされて官民問わず引っ張りだこになった、軍楽隊だけではその需要を賄いきれないために民間の音楽隊が多数結成されることになったのだが、粗製濫造がたたったり管弦楽が出てきたり蓄音機が発明されたりで音楽隊は衰退した、それは容易に読めるのですが、

塩津氏は本のテーマがタカラヅカのため大阪や兵庫限定してますが、どんな依頼がどれだけあったかを書いているのですよ。(すいません、お金が無くて変えなかったため、違うかも知れません)

楽団が興行主や主催者に依頼されて演奏すると、観客のことは楽団に解りません。

しかし、宴会なり壮行会なり、観客達が依頼した場合、楽団がどんな人達に必要とされたかは、容易に解ります。

楽団演奏がコミュニケーションのいち手段であり、片方に誇りを持った演奏家たち、もう片方に楽団演奏を欲する人達(決して特定の興行主ではなく)がいることを考えたら、楽団はどんな姿勢を持ったらいいのかを考えるのが楽になるでしょう。

「世間を賑した音楽には、こういうのがあった」でもよさそう。

しかし、そうした原氏の指摘した博物館的手法を楽団が採ることは、どうかな〜。