ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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クラシック音楽の可能性とは

某作曲家の日記で、「良い聴衆とは」というテーマの文章がありました。

いつもの私でしたら(ふーん)で終わりだったのですが、たまたま

梅棹忠夫 著「メディアとしての博物館」平凡社

を読んだあとでしたので、この手の欺瞞が丸見えになってしまいました。

今までにも何度か書きましたが、当「吹奏楽『革命』研究会」の『革命』とはなんじゃらほい、といえば

「世間一般では『音楽家』とは『演奏家』のことだと認識している、その認識を改めよう」なのですが、

「『音楽』とは『演奏』のことである」と仮定するならば、その『演奏』とは『演奏家』側の視点と『聴衆』側の視点に分かれます。(他の視点もあると思いますが、とりあえず)

吹奏楽の世界で『演奏する人』と『聞く人』は、もちろん

『演奏するだけで聞かない人』てのは、あまりいないような気がしますし、

『演奏するし聞きもする』人はかなりいるでしょう、そして

『演奏しないで聞くだけの人』てのもかなりいるはず、

んで、

『演奏する人』は『聞く人』をルールで拘束することを疑うことなく常識と思っていて、『聞く人』がそのルールを守っている限りではどんなことをされても文句をつけられない。

演奏をした後はどんなことを言われても言い返すことはできないけど、

演奏を聞く姿勢(マナー・ルール)は拘束しているわけだ。

『聞く人』がルール(演奏を聞くときのマナー)から解放されたら吹奏楽の可能性は飛躍的に高まるのではないかと、梅棹忠夫氏が博物館業についてご自身の経験を綴った本を読むと思えてくるのだが、

演奏しているその瞬間を『音楽』とし、その間だけは聴衆の自由を拘束するイデオロギー下では、ちょいと難しそう。

『聞く人』側も積極的に共同作業をして現況を成立させているからね。