ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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江戸時代の恋愛と現代の恋愛

講談社の販促雑誌「本」に、堀井健一郎という人が、「落語の向こうのニッャ刀vという連載をしています。

「本」2008年1月号は「半公の岡惚れ」という大で、落語に取り上げられている江戸時代のラブストーリーを紹介し、現代と違う恋愛模様・同じ恋愛模様を書いています。

これを読んでいたら、吹奏楽にも通じる考えがありそうでして。

ちょっと長いのですが、一部引用。

pict:rightおれには江戸の新吉原というのがどうしても実感的に想像できないのだけれど、でも嗅覚をすまして想像するに、現代的な恋愛とはまったく別の男女関係がおもい浮かぶ。直観でいえば、当時は自由恋愛はなかっただろう。吉原に限らず、社会のどこにもなかった感じがする。

それは自由な恋愛が禁止されていたということではなくて、人は自由な恋愛にまったく興味がなかったということだ。個性は意味のあるものではなく、キャラクターという概念もなく、そもそも個人で何か屹立している必要がないなら、恋愛感情はあっても、それを人生のどこかに組み込む必要はない。花見、舟遊び、花火見物と同じラインで恋愛は存在していればいいわけで、だったらそれは遠く浅草のちょっと先、新吉原の中に囲い込んでおけばすむ。生きていくのに懸命で余裕がないなら、そちらに近寄らなければいい。

もちろんいつの時代だって、人は人のことを好きになる。色恋沙汰は遥か古代から絶えることはない。ただ21世紀の日本では、恋愛が色濃く人生に影響を与えていて、誰もが何かしらの恋物語を持っていることになっている。そういう世界に仕上がり、それ以前の風景が想像しにくい。いま、自由な恋愛を社会は邪魔をしないし、基本的に奨励されている。不自由な恋愛は、つまり恋愛が二重三重にからまっている恋愛は、みんなで話題にして消費するものとなっています。たぶん、けっこうみんなヒマなんだとおもう。

ま、ありていに言えば、恋愛が経済活動に組み込まれてしまっただけだ。だから奨励されている。恋愛がその周辺を含め、きっちり商売になっている。セックスと直結しない部分まで、ちゃんと商売になっているところがすごいとおもう。pict:left

・現代の吹奏楽に、自由ってどれだけあるのだろう?

 一番最初に“やりたい楽器”をやらせてもらえるか?

 演奏したい曲は採用してもらえるか?

 演奏したくない曲からは降りれるか?

 私が今までいたバンドでは、

 「社会に出たら任された仕事をこなさないといけない、やりたくないからやらないじゃ済まないんだぞ」

 と説得されました。つまり吹奏楽を通して不自由に耐えることを学べと。

・合奏演奏の中で個性って意味あるのか?

 お話しなどでは重要な脇役てのがいますが、スタープレイヤーは個人が立ちますが、

 支えの演奏ってサウンド的には重要でも個人名までは知られていない。

他にも参考になる考え方はあるのですが、恋愛が経済活動に組み込まれていった過程ってのを考えていくと、吹奏楽が社会的に奨励される道も見えてきそうな気がする。

でも日本の吹奏楽人って、経済活動に組み込まれることを望んでいるかが謎だ。