ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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自分の内と外

前にも書いたような気がするけど。

学校で無理やり本を読まされたり、無理やり曲を聞かされたりする体験を苦痛だと思ってたという人は多いけど、少なくとも本のほうは、

自分が将来○○になりたいと思っているときって勧められたら参考のために読むものだと思う。

自分の好きな本を読みたいってのは自分を補完・補強したいというベクトルであって、

今の自分とは違う自分、今の自分を超えた自分になりたいと思ったら乱読するものだと思うのですよ。

よく「あのときあの一冊と出会わなかったら、今の自分は無かったと思う」てな言葉がありまして、これは別に本だけでなく人物であったり曲だったりすることもあるわけですが、その経験があればこそ「未だ出会っていない自分に会わせてくれる一冊と出会うために本を読む」行動を続けるわけですよ。

小学生や中学生で自分の将来を決めるものか、と言う人、美大生に聞いてみるとよろし。

美大の受験はスケッチ・デッサンが鍵で、確かな技術を習得するためには18歳で美大を受験するとして、8歳とか10歳ごろから基礎を作り始めないと間に合わないと言われているから。

そして、日本が幕末からオイルショックまでの、欧米に追いつき追い越せの時代てのは、今の日本よりもっと凄い日本にならなくては!という意識があって、サラリーマンやサラリーマン養成所たる学校では、好き嫌いの問題ではない、修めておかねばならぬ知識があるんだ、というイデオロギーがあって、

大卒?ならば聖書と精神分析入門と資本論の三冊くらいは読んでるよな?という常識があったようなのですよ。

しかし'80年代から経済が欧米に追いついて、社会を見渡してみると碌な状態じゃなく、そんな教養主義に意味があったのか?と疑問が生まれて

「読まなきゃいけない本」から「読みたい本」へと嗜好が変化してしまったわけで。

そんな変化が訪れたとき、学校教育ってのは強制で行くべきなのか、生徒の知的好奇心に任せるべきなのかという議論が起こって、いわゆる「ゆとり教育制度」が始まって、現在に至る。

じゃぁ吹奏楽で「あのときあの一曲に出会ったからこそ、今の自分がある」という人、ゼロではないでしょう。しかし読書文化でそれを言う人と比較して、人数は何割くらいなんだろう?

演奏自体の基礎は強制的にでも習得しないとダメだという共通認識はしっかりしているけど、好きな曲しか演奏したくないと・聞きたくないいう最近の思想や、発言力の強い者の希望しか通らないという(私の考えているところの)悪弊が残っていたりと、点検してみたほうがいいんじゃない?という提案は、一顧だにされないんだよなぁ。