否定の中にも力は無いかい?
あちこちサイトを見ていて言葉や文章の使い方に違和感を感じると、私は時々コメント欄に「間違ってませんか?」と書きます。
すると反応は二種類ありまして、「あら知りませんでした」というのと、「通じればいいんじゃね?」であります。
言葉や文章に、正確さに価値を置く立場と、流通性に価値を置く立場があります。
ちなみにクラシック音楽の世界では、「正しい演奏」という言葉を持ち出しますと、往々にして「正しいけどつまらない演奏」と「間違いだらけだけどいい演奏」という方向になり、「正しくていい演奏」とか「間違いだらけでつまらない演奏」という思考軸はあまり聞きません。
んで、「通じればいいんじゃね?」=「間違いだらけでもいい演奏」と並べて見ますと、演奏家と“私”という間で通じたという肯定なわけですね。
そこから先、どこまで流通するか、いいと思ってもらえるのかが断ち切られております。
音楽に正誤よりも良し悪しを基準にすべきだという人を見かけたとき、
正しさのメリットデメリットを考えましょうやとか、
その“よさ”のパワーはどこまで続くのか、人数や持続時間とか
と持ちかけたほうが、よいのでしょうか。