藝術価値と商品価値と報道価値
あちこちの掲示板やblogに書いているんですけどね。
ダボス会議での麻生総理の言い間違いを報道したり、サミットでの中川大臣の酩酊状態を報道している割には、肝心のダボス会議やサミットで何が話し合われたかの報道がないなぁと考えていましたら、
報道の決定権を持っている人達は
「大衆には経済の話しは難しくて敬遠するだろう、言い間違いや酩酊状態の方が商品価値があるだろう」
と判断したんでしょう。
難しい経済会議の事実だの真実だのといったものの中にある商品価値よりも、
人目を引く、共感を呼ぶ、司会者やコメンテーターが安心して非難攻撃できる事実の中にある商品価値の方が高いと判断したんでしょうね。
んでね。
普段クラシック音楽に携わっている連中の中には、
「売れている演奏がいい演奏、藝術的価値の高い演奏だとは、限らない」という御託を並べるのがいるんですけど、今の時代には素晴らしい演奏が出来る人と経済力の高い人以外にも、報道の権限を握っている人てのがいるのですが、クラシック音楽の人間が考える報道、マスコミてのは、明治時代の広目屋レベルなんじゃないでしょうか?
何故大手メディアがダボス会議やサミットで話し合われたことを報道しないのか、
その報道しないことでで権限者の思惑とか理由とかとは無関係に、受け手の側に想像が働くわけですよ。
さぼり記さんのエントリ
「修正記事」参照。
ところがクラシック音楽は、報道されないことから何か価値が推察できるかといえば、な〜んにも思い浮かばない。
お金を集めるのが難しいのは「日本はまだまだ経済至上主義が幅を効かせている!」という言葉が用意されているけど、報道陣を集めるのが難しいことには、はてどんな言い訳が用意されているんでしょうか。