ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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殿堂の自称と客観、日本と世界

作品を語る人たちと文化を語る人たちの違い、

史書をそれ自体作品として語る人たちと文化として語る人たちの違い。

考えるための材料は、やはり売り上げ高とか来客数が挙げられるでしょう。

映画なんかは作品の質とか好き嫌いを語る人がいますが、

日本映画興行成績ランキングなんかを知った上で語る人と、こういうデータが発表されていることを知らないのとでは、やはりどっか違う。

某blogで江戸時代末から明治時代くらいの浮世絵のことについて、

「今の日本で優れていると言われている浮世絵の多くが、何故欧米の博物館やコレクターの手元にあるのかといえば、当時の日本ではそれらが優れているとは思われなかったからだ」

という当たり前の指摘がありまして、その延長線上にアニメや日本のホラー映画が見据えられています。

日本の出版社や映画会社が海外との契約のしかたがよくわからなくて、ヨーロッパなんかでは日本で作られたアニメだと思われなかったり、現地の会社にいいように改編されまくっていたり、ホラー映画の「リング」アメリカ版は権利を売っちゃったのでどれだけ売れても原作者にお金が入らないとかあって、浮世絵の流出が繰り返されているのですね。

んで自民党政権アニメの殿堂を造ろうって動きを民主党が潰そうとしてって現実があるんですが、吹奏楽の曲で、日本では顧みられなくなっている曲が欧米で売れてるのか売れてないのかってデータがよく解らない。

アニメの殿堂とえいば野球の殿堂とか落語の殿堂とかあって、来訪者がいるからこその“殿堂”なのであって、来訪者がいない主観的な殿堂は一般的な殿堂の名に値しないのかなとか。たとえば「日本吹奏楽の殿堂」なんていうのは、社会的に有り得るのだろうか?