ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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付加価値

経済ニュースを見ていると、安価な中国製品に圧される日本製品という構図の中で、「日本は今まで以上に付加価値の高い製品を作らないといけない」という論調がある。

その“付加価値”とはなんぞや、というと、その経済ニュースの文脈では、例えば「軽薄短小」であるとか「面白さ」であったりして、さまざまに説明をしている。

じゃぁ。

音楽で“付加価値”ってなぁに?と演奏家に質問したら、果たして日本人演奏家(が何人いるか知らないけど)の何人が自分なりの答えで、且つ、質問者に納得して貰えるのかが興味あるけど、以前に書いたけどそもそも“音楽”てものが“音(文化)”に付加価値をつけたものなんだから、音楽の付加価値なんて言ったら下手したら屋上屋になってしまうんだよね。

んでんでさらに、日本人演奏家は日本国民(大衆)を指して「クラシック音楽文化の民度が低い」ということを匂わせることを言うんだけど、

経済ニュースが「日本は今まで以上に付加価値の高い製品を作らないと」と言うとき、視聴者が「うむ全くだ、俺も頑張らないと」と思うか「がんばれー職人達」と思うか、つまり我が事と思うか他人事と思うかで、その人自身に付加価値が付くかどうかの分岐点になっているんですよね。

そして現在の日本で価値に高低をみるならば、「目利き」という存在を抜きには語ることが出来ない。

商人であったり(一流デパートてのは目利き)ジャーナリストがその役割を担っているのであって、視聴者が日常瀬活で目利きに見定められることがあるのかどうか。

家庭の主婦が家族のことを思って食事の質を考える、それ自体は立派なことですが、価値の高低さを考えると、他の家庭・主婦との比較とか、旦那や子どもの評価をどんな思考軸で考えるかでその人自身の価値が見えてくる。

…あれ?話しが収拾つかなくなりそうだ。日本人個人の付加価値の考えはとめよう。

日本の吹奏楽で価値と言えば、プロは演奏の質、アマは演奏への姿勢が主軸になる。

プロが他人と比較してより良い演奏をすることが付加価値になるのか?

アマが他のことにも応用可能な思考回路や演奏姿勢を得ることが付加価値になるのか?

しかし、それじゃぁ現実問題ダメダメなんだよな。

…眠い。眠る。