ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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演奏に付加価値を付けよう

インターネットであちこち見ていたら、宮崎県の口蹄疫災害とか、沖縄の普天間問題などで、

「大手メディアは真実を伝えていない!」という嘆きを読みましてね。

口蹄疫災害のときは風評被害が出ないように報道規制がかけられたとか、普天間問題も沖縄の地元新聞の内容と、首都圏の新聞の内容、全然違うのは想像つきます。

んで電子機器の発達で、現場で必死になって努力している人たちが情報を発信して、関心がある人はそちらをチェックしているってのを見ているんですけど、

大手メディア=真実を報道しない

現場の人たち=頑張って情報発信、

何故に二極化しているんだろーと考えたら、中間の情報発信者は二次情報以降で頑張っているようなんです。

しかしですね、江戸時代の歌舞伎なんて考えれば解るように、倹lってこういうとき中間の部分を担えるはずなんですよね。

宮崎県で可愛がっていた牛とかブタを泣く泣く殺さなければいけない人たちの慟哭とか、

沖縄県民が何故「差別されている!」と怒っているのかとか、そういう気持ちを伝えるのに音楽とか演劇ってとても有効だと思うのですよ。

けどクラシック音楽家ってベートーベンとかモーツァルトとかの「作者の言いたいこと」の表現をしたがるほどには、現代の日本人の、まるで戦争をしているかのような真剣さを「伝えたい!」と思っているとは、思えないのですよ。

もちろんそういうことの報告会を演奏とか演劇で発表しようとして、お客が集まらないという懸念はあるでしょう。

しかしそれならそれで、マスコミや個人の情報発信に比べて倹lの「伝えたい気持ち」は、そんなにも「いらないもの」なのか、大衆は同時代の人間の必死さよりベートーベンだの(略)の方に興味を持っているのかい!とか、考えなきゃいけないことが明確になると思うのですよ。

絵画とか彫刻とかの分野では見る人を挑発する作品が「件pの本質ってのは、こういうものだ!」と主張するのが多いけど、音楽はどうなの?演劇は私の管轄外だから知らないけど、音楽って聞く人に受け入れられることが前提でないと、根も芽も出ないもんなのかね。

演奏の技術を磨いて、「伝えたいもの」を表現することに一生懸命で、じゃぁ「伝えたいもの」ってなんなの?

それが今の音楽に欠けている部分なんじゃないかしら。