ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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��私たち�≠フ中の��私�≠ニ、��私�≠ェ集まってできた��私たち��

2016/09/25追記

つまりはクラシック音楽管弦楽および吹奏楽は、日本で未だによそ者の文化だってことです

追記終わり

某地方都市の博物館が某企画を立ち上げましたので、参加してあちこち見て歩いたんですよ。

その企画は私にとってとても興味深く楽しかったのですが、バスが止まった地点各々に学校がありまして、そこの吹奏楽部が演奏しているのが聞こえてきたんですよ。

ある学校はAKB48、ある学校はももいろクローバーZの曲で、本当は他にもいろいろ練習しているんでしょうけど、昔に「うた」の本で読んだエピソードを思い出しまして。

戦後日本各地の「うた」を採取して廻っている人がいまして、働いている女性たちに声をかけて

「あなたたちの歌を歌ってくれませんか?」と頼んでみる。

みんな恥ずかしがって断るのですが、食い下がってお願いして歌ってもらうと、歌謡曲ばかり。

「いや、そういう歌ではなく、この土地で昔から歌われている歌があるでしょう?」と言うと、

みんな「いや、そういうのは歌わないです」と言う。

テレビの普及がその土地固有の歌文化を断絶させてしまっているんだろうな、

という主獅フ本だったんですが、それを連想しまして。

で、そのときはそれで終わり。連想しただけ。私たちが去った後でどんな曲が演奏されているか知りませんので、ひょっとしたらひょっとするかも知れません。

ツアーが終わりまして、市役所の前で解散したんですが、盆踊り会場が設営されておりました。

働いている人に何時から始めるか尋ねたら、夕方五時から始まると。

夕方五時からテレビで「名探偵ャ純香vやってたんでそれを最後まで見て、夕食を食べているうちに夜七時になり、盆踊り会場に行ってみましたら…見始めた当初は気づかずぼーっと見ていたんですが、いきなり気がつきまして、打ちのめされました。

かかっている歌が、この町の歌で、おじちゃんもおばちゃんも、子供たちまですいすい踊っている!

自分たちの町で、町の(自分たちの)歌があって、ちゃんと��みんな�@xれる。

これ、何が凄いかって、クラシック音楽でこれはありえないでしょう。

それどころか戦前から戦後から、日本人クラシック音楽演奏家がヨーロッパに演奏に行ってさんざん言われていた、

「何故あなたは私たちの音楽をやるんですか?何故自分のところの音楽をやらないんですか?」という質問。

それに対して当時は

「まったくこの土地に関係ない者が、どこまで演奏できるかを試してみたくて」みたいな返事が数多く返されました。そして今現在、こういう問いを(私が)しても、

「何を今更w」という感じで返事もしてれもらえません。

問い自体がナンセンスとされて、無視されます。

しかし、少なくともこの返答って、

「何故��あなたは�℃рスちの音楽をやるんですか?」への返答であって、

「何故��自分のところの�♂ケ楽をやらないんですか?」への返答にはなってないんですね。

伝統行事として、亡くなった人たちの魂が帰ってくるから慰めようという趣獅フお祭りに、その土地の音楽が鳴らされる、歌われる。これはこれで西洋音楽なわけですが、絶対に

町の人たちが思い思いに家にある西洋楽器を持ち寄って大合奏をしよう、とはならないわけです。

もちろん地方都市にだって、各家に一つくらいは西洋楽器はあるかもしれません。ギターでも管楽器でもピアノでも。

しかしそれらの楽器は、各家庭の��私�≠ェやりたいんであって、○○市民吹奏楽団だの、マンドリンオーケストラだの、果ては県名を冠したプロ交響楽団管弦楽団であっても、そういう��私�≠ェ集まって出来た��私たち�≠フ集団です。どころか市民吹奏楽団だってプロ交響楽団だって、もはや一つの町だけでは活動を維持できない、他の共同体からだって人を入れるのは当たり前です。

一方で、お祭りもまた外部から人を呼んでやっているという話は聞いています。

御神輿を担ぐかけ声だって、今は改善されてるかもしれませんが話を聞いた当時は、雇われた人たちは「エイヤッ!エイヤッ!」という威勢のいいかけ声で、その土地の人たちはシズシズと担いでいるミスマッチも多かったと聞いていますが、それでも私が今回見た盆踊りは、町(共同体)が担保している��私たち�≠ェいて、その中で��私�≠ェ好きに踊っている。

美しく踊っている人、ノリノリで踊っている人、全部を覚えられていない人、そして会場の隅で踊る人、さまざま。

これはこれで器楽合奏ではありえない。まぁ吹奏族とか街コンとかはそうでしょうけど、今も続いているのかな?

で、こういう、��私�≠ェ集まってできる��私たち�≠フ音楽に身を寄せている私にとって、

��私たち�≠ェ集まってやってる��私�≠フ演奏とか表現には越えられない壁というか渡ることのできない溝があって、結局日本のクラシック音楽演奏者たちは、暴言だけど一人残らず、戦後七十年経っても何もできなかったわけだ。

戦前の吹奏楽雑誌に「ヨーロッパではどんな片田舎にも一つは楽団があって」なんて記述を読むことがあるのですが、演奏のレベルはともかく、��私たち�∞�私�≠フ意識は全く及ばないと。

もちろん検索すればその市にも市民吹奏楽団や市民オーケストラはあるようですがね、そういう問題じゃないのは解りますよね?

そして、もし昼に聞いた吹奏楽部の子供たちがこの会場で踊っていたら、大勢の��私�≠ェ集まって就くって��私たち�≠ニ、��私たち�≠フ中の��私�≠�、どんな気持ちで行ったり来たりしてるのか、それを考えると、私がこのブログで長々と書いていることのほとんどが、吹っ飛んでしまうんですよね…。これは浮「です。