吹奏楽の��本質�≠�見つける手がかり取っ鰍ゥり、上下の上
映画「シン・ゴジラ」を説明する中に、
「日本に円谷英二が生まれなかったパラレルワールドにゴジラが現れたら」という文章がありました。
だから登場人物たちは怪獣を「ゴジラ」と呼ばなかったり(劇中の博士が採取した伝説に呉爾羅という名前があって、ここから命名)オキシェジェンデストロイヤーなんかの対決兵器もなし。
そういう if の物語形式があるのだったら、
キュビズムが起こらなかった現代アート社会というのは、物語にならないのかしらん、と気がつきました。
キュビズムに携わった件p家は歴史上途中で死んじゃったり興味を持たなかったりとか。例えばピカソは青の時代あたりで事故死しちゃったとか設定して、
舞台は今の日本社会、主人公は画家で、実力はまぁまぁ、周囲との人間関係もまぁまぁで、
ある日突然
「月ってさ、いつも同じ面を地球に向けているんだってね」
「うん、聞いたことある」
「裏側ってどうなってるのかね」
「NASAには写真あるのかね」
「月のこっち側を描きつつ、裏側も描けないかな?」
「?何を言っているの?」
「例えばサイコロをさ、一の面を見る人に向けつつ、六の面も描く工夫ってないかな、みたいな」
「展開図?」
「いや、展開図だと、サイコロが持ってる娯楽性とかさ、真剣勝負のときの緊張感とかは排除されてるじゃん、そういうサイコロの本質を表現しつつ、サイコロの面も裏も平面に描く事って出来ないかな?」
「意味不明。全然解らない」
というやりとりがあって、主人公の四苦八苦を描く if 物語。
これって、現代人はキュビズムを知っているか、調べれば解る世界に生きているんだから、途中経過すっ飛ばして結論に気がついちゃって、途中経過を作っていく過程が物語になる構図ですな。
これを吹奏楽に当てはめると、どういう構図になるか。
(明日上下の下を書こう)