言葉に出来ないハンデ
いま、Twitterなりまとめサイトなりで、旧来の価値観が真っ向否定されていることが多いです。
労働観とか子育てとか。
ある意味その流れに便乗させてもらおうと今回書くのですが、
音楽家の書いた文章を読むと、結構な数
「言葉では言い表せないことを演奏するために音楽をやる」
みたいなことを書く人を見ることがあります。もちろん音楽だけでなく絵とか彫像とかでもいますけど、それはさておき、
今の時代ってクラシック音楽は、一つの曲を大勢の演奏家が演奏して、聞き比べが出来るのですね。
A氏演奏のZ曲、B氏演奏のZ曲、C氏演奏のZ曲と、演奏=解釈が売りになっていますけど、
吹奏楽って未だに曲が売りで演奏が売りではない文化だと思うのですよ。
既存曲がそうなる前にどんどんどんどん新曲が発表されて。
もちろんマーチなり古典なり名曲では、「星条旗よ永遠なれ」でも「ホルストの一組」でも「風紋」でも、多くのバンドが演奏していて、その気になれば「~のすべて」シリーズは作ることができるでしょう、しかし多くの吹奏楽人が利き酒のような情報を隠して演奏を聞いて、どこの演奏家を言い当てられるほど解釈を売りにできるような成熟を遂げているのかどうか。
考えてみたら、昭和初期から吹奏楽雑誌で「曲紹介」のコーナーはありましたが、それらの何%が実際に日本で演奏されているか、かたやコンクールでとてつもない演奏があってそこからブームになった曲は、実際のパーセンテージは解らないけどインパクトはあるわけで。
といっても今時の若い人は「鼻血ドラゴン」って知ってるかな?
うん、それこそインパクトの違いというか、聞いて欲しい!という熱量の問題かも知れないけど、
で、「この曲をやりたい!」はあっても「この曲はこういう演奏の仕方もあると思うんだよ」まで持って行けるかどうか。
「いやクラシック音楽にもそんなのねーよ!」と言う人がいるかもしんないけど。
コンクールの講評でバンドジャーナルに掲載される文章は、演奏紹介の要素がどこまであるか。
現実に演奏紹介の文章は一つもないってことは無いだろうけど、それが聞いてみようとか買って見ようとかまで持っていけたか、つまり結果を出しているのかどうか。
んなこと解りゃしないでしょう。
それならそれで、一つの曲の多数演奏を聞いて違いを解ろうキャンペーンは、やったほうがいいと思う。