教育活動の一環としての吹奏楽
どこに書かれているかを忘れてしまい、かなり探したのですが見つかりませんでした。(_ _)
日米の子ども観の違いについての文章を読みました。
・アメリカで主婦やってる日本人のAさん。
子どもが学校から帰ってきた。泣いている。理由を聞いてみると
「クラスのいじめっ子(アメリカ人)に自転車を盗られちゃった」
Aさん、あらまあと着替えて子どもと一緒に外に出る。すると隣の奥さんとばったり出会う。
「どこかお出かけ?」「それがね、こういう事情でね、その子の家に文句言いに行こうと思ってるのよ」
隣の奥さん目を丸くして、
「あらまぁあなた、いちいちそんなことで親が出たら、この国じゃやってけないわよ」
・日本人ビジネスマンのBさん。同僚にホームパーティーに招待された。
着いてみると予定時間よりちょっと早い。家の中で他の客を待っていると、同僚の子どもが挨拶に来た。
「こんにちはBさん」「こんにちは」
「ところでBさん、今の米日経済問題について、どう思いますか?こんどの大統領選挙、どう思いますか?」
こんな子どもがいきなり何を言い出すんだとビックリしたが、気がつくと同僚がニコニコしてこっちを見ている。
それで理解した。
そうか、これはこの子が大人になって、自分がホームパーティーを開いたときのための、練習なんだ。
Bさんはきちんと、自分の意見をその子に語った。
この二つの話しが何だというと、アメリカでは、親や大人や社会が子どもをトラブルから守るのは当たり前なんだけど、二十四時間、その子が死ぬまでずっと見ているわけにはいかないんだから、
その見ることが出来ないときに何かあったら、その子が自分でトラブルを乗り越えるしかないじゃないか、という考え方のようです。
だから学校の送り迎えは親が車でやるけど、学校も授業で護身術や体術のプロに来てもらって、レクチャーをしてもらうことも珍しくありません。(日本では集団の登下校、あまり外に出ないよーに、ですな)
んで次。
オモチャ屋さんとか本屋さんで、子どもが「買ってー買ってーこれ買ってー」と泣き叫んだとき。
親が買ってあげれば終わるけど、買ってあげないとき。
日本では親が「駄目!」と言います。
「前に買ったでしょ!」「お金が無いの!」「こないだ約束破ったでしょ!」と理由は様々ですが、「駄目!」と言います。
アメリカではどうか。
「どうすれば買えるか、一緒に考えてみよう」です。(そりゃ人によって違うよ。でもちゃんとした常識を持っている親御さんは、ってことで話しを進めます)
欲しい物はお金を出さないと買うことができない。
でも親はお金を出さない。
すると当然の帰結として、子どもが自分でお金を稼いで買う、ということになります。
だもんでアメリカでは靴磨き、窓拭き、新聞配達、ベビーシッター等々、子どもがやる仕事のジャンルが存在します。
じゃぁ日本の子ども達がお金を稼ぐために、フリーマーケットに出店しようと主催者の所に行ったらどうなるか。
「お父さんお母さんと一緒に来てね」と言われること、確実です。
アメリカ人は言葉の通じない幼児は動物と一緒、として躾まして、言葉が通じるようになれば「小さな大人」として社会への参加の仕方を教えます。
しかし日本では、言葉の通じない幼児には何言っても通じないのだから、ほっとく。言葉が通じるようになってから躾を始めます。
そこから日本では子ども、すなわち被保護者は保護者の許可を必要とするわけですが、アメリカは違います。
日本のように「子どもは親の所有物だ」「虐待?躾だ」という親も、いることはいますが、社会がそのことを知れば国が動きます。日本のように
「それはそうかも知れないけどさ」なんて中途半端な所で行動をためらったりはしません。
私はこの話を今までに、幼い子供を持つ母親三人に話したことがありますが、みんな興味深く聞いてくれました。そして三人が三人とも、
「よ〜くわかる。でも、日本はアメリカじゃないんだよねぇ」と
悔しそうにしてました。
日本の吹奏楽は、認可制の上に成り立っています。やりたい楽器、やりたい曲、練習曜日・時間、なんでもそうです。
前例主義でもあり、発言力の強い者が複数いる場合、物体の重心を探すようにあちこちに話を付け、根回しをしなければなりません。
間違っても希望を述べた者に対して、
「じゃぁどうすればみんなが、お前がその楽器をやるのがいいな、とか
みんながその曲を演奏したがるようになるか、考えてみよう」なんて
ことは、言いません。
社会への参加の仕方よりも団内の事情が優先されるのですから。(w
日本の音楽教育というものは、(他の分野のことは知ったこっちゃありません。そこの分野の人がなんとかしてください)外国の上っ面は取り入れましたが、その根本的な部分は厳然とした日本文化が存在します。
日本の吹奏楽は、「俺の言うことを聞け!」という教育思想の上に成り立っています。
そして欧米の(最高の場であることは認めますがそれでも)ごく一部の同じ現象が見られる例を持ち出し、その教育思想を正当化しているのです。
わたしは、いやだ。