ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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言葉と楽譜

私が大塚英志氏のような、都市を観察する民俗学者の本などを読んでいるせいか、言葉と時間の関係に興味を持ちます。

昨日古本屋街を歩いていましたら、「月刊マスコミ評論(マスコミひょうろん、と書かれている号もありました)」という雑誌を見つけました。

昭和五十年代初頭に出ていた、「噂の真相」サイズの雑誌なんですが、

そのバックナンバーの一つに梅棹忠夫氏の「知的生産の技術」を批評したものがありました。買おうかとも思ったのですが、持ち合わせがなく立ち読みだけですので、正確なことは書けませんが、

評論者は「知的生産の技術」をよく思っていないんですよ。

私は近年出版された、情報の管理にまつわる本を読んでいて、梅棹氏の書いたこの本が、ハードウェアは参考にもならないほど古いけど(なにせ和文タイプライターが採り上げられている程ですから)、物の考え方はコンピューターやインターネットが普及した現在でも十分有効だと、今でも必読本だと書いているものばかりだったんですよ。

だからよく思っていないとは、どういう意見だろうと読んでみましたら、

その評論者にとっての「知」とは「知性」や「創造」に関連する物であり、物理的に蓄積するような物では無いはずだ、という論点でした。

「○○に関連した本を何千、何万冊も、熟読して内容を頭に入れ、自分の創作の糧にしたのならばすごいけれど、ただ買って積んでおくだけだったら、お金さえあれば子供にだってできる」

といった感じです。

けれどもねー、立花隆氏が「捨てる技術」を酷評したときに書いていたと思うのですが、たった一行の正確な引用のために、その本一冊丸ごと買う心理状態ってのは、この時代は考慮されなかったんだろうなー、とか、

唐沢俊一氏が「古本マニア雑学ノート」で渡部昇一氏の「知的生活の方法」についてふれた際に、

『知的生活のためにはまず、書庫のある家を建てねばならぬ、と書いてある。(略)

この本がベストセラーになったとき、世の書評人の多くはこの内容にかなり文句を付けた。

「知」という形而上的なものを、家の広さなどという形而下的なものに左右されるものとして書いた著者に、何か知性を侮辱されたような気持ちになったのだろう。最初にこの本を読んだときの僕も、そうだった。』

幻冬舎文庫の172ページ目です。

しかしその当時の唐沢氏は、大量の書籍が場所を喰う現実に悩むようになり、渡部氏の意見を認めるようになるのですが、今ここで私が興味を持つのは、梅棹氏や渡部氏の文章に不快感を持った心理状態です。

「知的生産」とか「知的生活」という言葉がテーマとなっている本を読んだとき、「知」という言葉の限定的な意味に拘り、内容を従来の意味で読み解こうとして、用法がおかしい、侮辱ではないか?と不快になったとおもうのですよ。

しかし梅棹氏にとっては本来は楽しいはずのことなのに楽しいとは思えないこと、煩雑さが溜まっていく現実、不具合が看過出来なくなってきたのだけど、周囲の人たちもどうしたらいいか解らず、困っていて、ニッチもサッチもいかない状態なので、いろいろ工夫して方法を見つけ、周囲に勧めた。

それを出版者に頼まれて文章化してみたものの、手法は梅棹氏独自の物であっても、言葉を新しくすることはせず、従来の言葉を使った。

しかし不快に思った評論家諸氏ってのは、そこに至るまでの経緯(本の内容)ではなく、言葉の定義から(文の意味)から感情を害した、とまぁそんな感じでしょうか。

私も昔、『今どきの女達は何を見ても「可愛い」を連発する。他に言葉を知らなんのか』と怒っている文章を読み、その後に大塚英志氏の

「『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代」を読み、

「可愛いというフレーズ連発に怒っている人たち、語彙を問題にしても、語感は問題にしないんだな」と思ったことがあります。

日本語の乱れを嘆く人たち、文法としての用法を主に嘆いていますが、言葉に新しい意味を付けたり、言葉の中から新しい意味を見いだす事による日本語の変化って、それほどは言わないみたいですね。

一つの言葉(発音)に感情をどう込めるかって、演劇の人たちがよく指摘していますが。

クラシック音楽に携わっている人たちもねー、一つの曲を一つの楽団が演奏しても、指揮者が変われば演奏も全然違うものになるということは理解していても、言葉に関してはコチコチの石頭が多いってのは、意味に縛られているのかねー。

自分の知らない意味や用法の可能性をを認めることが人生を豊にする可能性でもあるって事に、早く到達してほしいものだ。

言葉無くして思考なし、柔軟な思考無くして分野の将来無し、だよん。