専門家の袋小路?
別にクラシック音楽に限らないけど、
「(私たちのやっている)○○は、世間から敷居が高いと思われている」
という言い方・考え方が、社会的な袋小路に嵌る原因ではないかと考える今日この頃。
物は言い様ってことなんだけど、
「敷居が高い」んじゃない、「日常生活から隔絶している」が精確ではないかと。
例えば、世の奥様方がスーパーマーケットに行くような感じで『館』に行く風潮になって初めて○○が日常行為になるのではないでしょうか。
基本1:奥様がスーパーマーケットに行って、食材を見る。
応用1:奥様が『館』に行って○○に触れる。
基本2:あれこれ品定めをしながら献立を考える。
応用2:○○のさまざまな片鱗に触れながら、自分の感性の動きを観察する。
基本3:献立が決まったら、食材を購入。
応用3:自分の感性が“これっ!”と告げたら、演者とお話し。
基本結:家族のため自分のため、食事を作る。
応用結:演者から得たものを、自分の行動(演○)に活かすもよし、心のこやしにするもよし。
これでこそ、演者は○○界のみならず、社会的な存在になることができる。
昔北海道のどこかのスーパーマーケット経営者がテレビ局の取材に、
「自分の家の冷蔵庫で買った物を腐らせてしまう主婦っているでしょう、
それならば私お店を、ここいら辺一体の主婦の冷蔵庫にしてしまおうと考えました」
と答えているのを聞いたことがあります。(心の分野では「いのちの電話」ってのも、あるなぁ)
『館』や○○の本拠地は、一般市民の感性的生活の、駆け込み寺には
なれやしないだろうか?
「敷居が高い」ってのは、駆け込めるものなら駆け込みたいけれど、畏れおおくて行くに行けないってことでしょう。
一般市民からはそもそも、そんなに頼られてないじゃん。