分離主義:もう一つの思考軸
私が今まで所属してきた吹奏楽団に、これをしたいこんなアイディアがあると発言し、
面唐ナ却下とか、うちの楽団の沽券に関わると却下されたことはありますが、
それをやっちゃ吹奏楽の品位を下げるみたいな意見はありませんでした。
私が話した相手一人一人の心情とか楽団の格というのは否定の根拠になっても、
吹奏楽という大きな理由は否定の動機にはならないわけです。
なぜか。
単純に考えると、
「吹奏楽はどんなジャンルでも演奏できる」と似ているけど違う方向の思考軸、
「吹奏楽はどんな実力の楽団でも演奏できる」てぇのが考えられます。
そう、今考えてみれば明治・大正期の吹奏楽団って、軍楽隊のきらびやかな演奏に憧れを持った市民楽団とか、軍楽隊を除隊した人達の結成した楽団の劣化演奏が平気で指摘されるわけで、吹奏楽は普及と同時に吹奏楽自身の格式なんて、存在しなかったわけですね。
“無断”コピー問題で「日本の吹奏楽は順法精神に劣るから実力のある作曲家が曲を作ってくれない」という意見は本末転唐ナ、遵法意識のある楽団ない楽団ひっくるめて吹奏楽なわけでして、仮に全ての楽団が遵法意識で行動したら、それはもう吹奏楽では無くなってしまうわけです。
もう少し解りやすく考えてみると、軍楽隊・官の音楽隊なら格式がある、縛られるものがあります。
んで吹奏楽史を紐解いても、軍楽という呼称が吹奏楽という呼称よりも先なわけです。
実際の演奏技術の高低とは違うところで他人の目というか規範を示さなければならなかったのが軍楽隊、
実際の演奏技術の高低とは違うところで他人の目を気にせずたくさん出現したのが吹奏楽団。この違いがおわかりか?
誤解しないでいただきたいのは、きちんと法律や他人の権利を尊重している吹奏楽団も多数存在しています。しかし、だからといって法律や権利を踏みにじっている楽団が守っている楽団を尊敬しているかといえば、してないわけでしょう。まぁそんな楽団もあるさ、でもうちはやらないよという程度で。
じゃぁどうしたらいいか。
実際の演奏技術の高低とは違うところで守るべきモノがあるということを宣言する新呼称を作るなんて、どうでしょう。