ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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矛盾?矛盾ではない?

私は吹奏楽を舞台にした小説、マンガ、映像作品を一つも漏らさず見たわけではないので違うかもしれないけど、

小説、マンガ、映像作品で吹奏楽を舞台とした作品を作った人が、登場人物の一人に

「自分を育ててくれた吹奏楽(部)の日常とか雰囲気とか感じを、小説〜という形で残しておきたい」

という役割を担わせないのは、何故なんだろう?

吹奏楽に携わっているからといって吹奏楽のことしか考えていない者なんて本当に一握りなんだから、物語の作者が吹奏楽を採り上げた動機を投影させた者を出したほうが、自然なんじゃないだろうか。

日本で吹奏楽に携わったことのある者がどれだけいるかは知らないけれど、自分が経験した吹奏楽の世界を何らかの形で記録しておこう、なんてことは、考えもしない者が圧涛Iでしょう。

で、少数ながら記録しておこうと思う人がいて、文章化、映像化の難しさゆえに成功失敗問わずとにかく「終わり」まで辿り着ける者が、もっと少なくなる。

作曲家が個々の吹奏楽社会(部活)の実際を知らなくても吹奏楽曲を作れてしまうのは、どんな吹奏楽社会(部活)であっても「あ、このフレーズ、吹いてみたいな」てな繋がり(能動性)があることを信じているからでしょう。(だから「音楽とは演奏のことだ」という認識が生まれもするんでしょう)

しかし、自分の経験だって立派な物語なんだ、という自覚を促せない作家って、結局は失敗しているんだと思う。