ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

AutoPageが終了したので引っ越し

才能ある人の才能の外に活路が必要。

秋岸清涼 - 耳の引越しさんのエントリ

音楽は短いほうがいいのか?」で取り上げられている先を読んで思い出したんですけど、日本のクラシック音楽史に関する本を集めていますと、だんだんと戦後の「うたごえ運動」とか「労音」といった、今で言えば左翼勢力なんでしょうか、当時は革新勢力が頑張っていたことが無視できないのですね。

どういうことかといいますと、アマチュア演奏家とか初心者の聴衆を増やして音楽界を盛り上げようと組織だって頑張っていたんですよ。

んで故・芥川也寸志氏の著作に顕著なのですけど、

「演奏なんて才能のある人がやるべきなんだ、プロにまかせておけばいいんだ」という固定観念の打破に躍起なっておりまして、アマチュア演奏家とかマナーを知る前の聴衆を増やすことを頑張っていたんですよ。マナーは教えていけばいいって。

んで、学校部活動を主な活動勢力と見なしていた吹奏楽界はそういった革新勢力との接点ってあまり見えてこないんですけど、こっちは楽譜の著作権を尊重しようというマナーを全然教育しなかったのですね。

それでも音楽市場自体が小さかったんで問題視されななかったというか、きちんと総括しなかったんでしょう。

そして…もう一つのプロ/アマの区切り、ビジネス側。

そういえば昨日テレビで故・阿久悠氏をモデルにしたドラマやってましたなぁ。

レコードの販売とか歌手(プロの育成)ってのは、プロのビジネス側がやるもんだって気概に溢れておりました。

んで近年になって音楽業界に、アマチュア演奏家やマナーをそれほど知らないお客を相手にしても成立してしまう余地が生まれてきた。

そこに目をつけたビジネスマンをアマチュアビジネスマンと呼ぶのは酷そうなんで、従来を旧ビジネスマン、新販路に目をつけた人達を新ビジネスマンとしてみますか、旧ビジネスマンには現状が憎くて憎くてしかたがないんでしょうなぁ。

どんな物からでも学ぼうって姿勢を無くした人達の末路は、怒るしかないのかもしれませんなぁ。

結果論からいえば(これ結構卑怯なんで申し訳ないですが)、旧ビジネスマンのイメージの限界による戦略ミスですよ。いい曲を作っていい演奏をして、それを大量に作れば音楽業界が豊穣な場所になるというだけでは短絡すぎたんですよ。

理想的な制度は理想的な住民にしか担うことはできない。みたいなことを書いたのは士郎正宗

しかしこの丸山という人、1980年代にあらゆる業界が直面した大問題、

「大衆は“いいもの”を欲しがらない、“自分が欲しい物”を欲しがる!」という恐慌時とか、ワープロが普及した直後の小説界の投稿量増大などの現実を、全く見なかったのだろうか?

何度か書いてますが、もう一度。(長くなるので折ります)

ワープロが普及した頃から雑誌の新人作家発掘系の企画に送られてくる原稿が無闇と増えた。

だからといって夏目漱石森鴎外級の作家がうじゃうじゃ出てきたのかといえばそんなこともなく、「てにをは」も満足に使えていない原稿ばかり。

一次審査といえば聞こえはいいけどアルバイトの下読みが三行読んで二次審査行きか落選かを決めるほど。

当時の業界は「しょーもねーなー」と「てにをは」すら使えていない作家志望者を嗤っていたのだが、今では書く経験を積んだ連中の中からライトノベルケータイ小説といった、社会に影響を与える作家が登場し、従来の夏目・森を信奉していた文学好きの凋落が止まらない。

そして本当の今、それら文学作品の文庫本表紙はマンガ家に依頼して描いてもらっているほどである。