恐浮フわきに美しさ
宮部みゆき 著「おそろし 三島屋変調百物語事始」角川グループパブリッシング 刊を読了。
とても面白かったです。
浮「話しと不思議な話しの間には、それなりの距離がある。
そしてまた、不思議な話しと意味不明な話しとの間にもそれなりの距離がある。
さらにそれらとはパラレルな関係として美醜の視点があり、描写が美でもストーリーが醜を扱っていたり、その逆の描写は醜なのにとても美しいストーリーてのも、ある。
浮「話しとは読者が浮ウを感じるから浮「話しなのであり、万人が浮「と言ってもその読者が浮ウを感じなかったら、それは浮「話しではない。
また現実の人間が物語と接するときは、多かれ少なかれ飛躍を受け入れる必要があり、そこで躓くと全くもって意味不明になる。
音楽は、もちろん物語、文学とは一線を画すものであるが、それでも物語のように聞く人に何らかの飛躍に付いてくるよう要求するものではないだろうか?
万人が名曲、名演奏と言ったところで個別の聞く人が“名”を感じなければそれは名曲ではない、という一般論はともかく、演奏家が「醜の中の美」みたいな演奏という文学的要素を表現することってのは、可能なんだろうか?無理かな?
また可能だとして、常日頃演奏家のファンな聞く人と、別にファンでもなんでもない聞く人に感じさせる演奏とは、別なものなのかも。