ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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演奏家が相手にしない人たち

昨日NHKの番組「追跡!AtoZ」という番組の 「なぜ増える?“ゴミ屋敷”トラブル」を見たんですけどね。 世間一般で“心が死ぬ”という場合、狂人とか廃人になるというイメージになると思うのですが、近代社会人として生活していく要素のいくつかが壊れてしまう状態も、もうそろそろ“心が一部死んだ”と解釈した方がいいのではないかな、と。 文月メの領域からはさんざん警告されていて、 中島梓 著「コミュニケーション不全症候群筑摩書房とか 村上龍 著「寂しい国の殺人」シングルカット社刊とか 読みましたけど、 クラシック音楽が狂人や廃人の心に染み入っていった物語は探せばあるだろうけど、常識人が「怠け者」とか「無気力」とか見がちな、ある程度は社会生活が営めるけど一部は動けなくなった人に力を与える状況って、どうなんだろ? 音楽演奏の指導で子どもを教育するのは、ある程度の権力性というか強制というか、力ずくなモノを含んでいるんだけど、そういった関係に背を向けてしまう子どもなり大人なりに行動を促すのは、もう演奏内容しか残ってないんだよね。 それがダメだったら、演奏家は白旗を揚げて背を向けてしまうのであって。 今の時代に発生している社会問題って、解決のため能力や人手は今まで以上のものが要求されているのに、演奏家は社会の進歩や進化に合わせて意識を適応させているんだろうか? コンクールで金賞とった演奏家・演奏団体が金賞を取るための努力をしていたことは理解出来るけど、その演奏が深刻の度を深める社会問題と無関係な立場をとるのであれば、社会的地位は相対的に下がっていくんだけどな。