ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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コーヒー豆と演奏者

今発売されている雑誌「BRUTUS」を勧められたので店頭でページをめくっていたら、とても心地よい刺激を受けたので購入。コーヒーの特集です。

まず25ページに書かれている

pict:rightャCントを順に挙げてみよう。まず基本的に豆の質が高い。つい先日、スイスUSB銀行が発表した「世界で最も物価の高い都市ランキング」1位は堂々(?)オスロ。以下コペンハーゲンストックホルムも当然のようにランクイン。バイヤーは「いい豆なら高くても厭わず買っている」と言い切るし、実際それでも売れる豊かな客層が背景にいる。pict:left

という記述を見て、これはコーヒーについての特集だけど、日本の購買意欲とは全く正反対だ。

それに日本では、金に糸目をつけないと言っても、商人が受けてくれない事情が多い。

ここを読んでニヤリとしてページを進めると、コーヒー特集なので豆についての説明が入る。

別にこの雑誌に限らずコーヒーについての書籍には、豆には酸味だの苦みだの甘みだのそれぞれに違いがあることは書かれていて、私も何度も目にしているのですが、この特集を見ていたら豆一つが演奏者一人に相当するな、と連想。

合奏音楽に携わっている人は食文化の言葉を引用して、指揮者は料理人であり、演奏者:素材を如何に料理するか、という類の発言をする人がいます。

ところがそれを突き詰めて考えると、キリマンジャロとブルーマウンテンが違うように、牛肉と羊肉が違うように、指揮者はイメージする演奏に応じて演奏者を指名するのが食文化の引用が正解なわけですね。

しかし一般的な合奏音楽関係者は、一人の演奏者・一つの素材に、料理人のその時その場の要求に応えよ、と言う。

それが悪いというのではありません。

指揮者のあらゆる要求に応えられてこそ演奏者だ、という考え方と、

多くの演奏者を抱えて曲によって演奏者を使い替えるという考え方の両立が出来ないんだな、という指摘であり、実は日本の(海外は知らない)吹奏楽文化って、まだまだ貧しいんだな、ということです。

そしてもう一つ、コーヒーの雑味だのスッキリ味だの、これもまたあらゆるコーヒー本に書かれていることですが、この特集を読んでいたら、

音楽とは聞く人を楽しませる者であり、奏者の腕自慢だの曲自慢だのの類はやってはいけない、という一般論を連想しました。(食分野では海原雄山が言っておりますな)

けど、技術力の確かさというのは、それはそれで公表した方がいいんじゃないだろか?

工学系の人は建築物のデザインも大切だけど構造がどうなってるか、気になるでしょ。

森博嗣著「地球儀のスライス A SLICE OF TERRESTRIAL GLOBE」に収録されている「黒窓の会にヒントあり)

で、上の「奏者はマルチ能力を持つ人もいるしシングル能力を持つ人もいる」という両論併記が許されないのって、作曲家が一つの曲に多くの要素を詰め込むからだと思うのですよ。

でも、それはそれでいいんだけど、一つの能力を徹底的に聞かせる、特化した曲って、練習曲くらいしか無いってのは、もうそろそろ踏み込んだ方がいいんじゃないかしら。

もういいかげん、ここの演奏技術、集団の合奏技術の披露曲を作ったって、聴衆は音楽を「それだけのもの・それが最上等のもの」とは思わないと思うけどな。