ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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バンドジャーナル創刊前の全日本吹奏楽コンクール

いやぁ…まぁ…えーと…

前回「バンドジャーナルは吹奏楽民主化を言論で確立したのかな」てなことを書きましたが、

意地悪な言い方をしたら、「然るべき肩書きを持っている人たちは、かなり吹奏楽研究に取られてしまった」なんですよねぃ…。

だって戦前からの論客だけでなく、警察音楽隊だの、大阪市音楽団・大阪府音楽団、はてはどんどん生まれてくる各吹奏楽連盟の会長にまで原稿を依頼しているんですよ!

1960年の第九回全関西吹奏楽団体コンクールのときには辻井市太郎氏だって講評書いているし。

ちなみに復活第一回のときは

P.03

第四回全日本吹奏楽コンクール

戦後第一回の月桂冠蒲郡、天理、富士鉄に

P.04

優勝バンド指揮者の言葉

山本誘 東海吹奏楽連盟理事・蒲郡中学校指揮者

高橋沢五郎 北海道吹奏楽連盟理事長・富士製鉄室蘭吹奏楽団楽長

矢野清 全関西吹奏楽連盟理事・天理スクールバンド指揮者

P.05

全日本コンクール 見たり聞いたり感じたり

藤崎三七雄(この人は肩書きが書かれていない)

全日本コンクール所感

須磨洋朔 陸上自衛隊中央音楽隊

P.06

予想以上の進歩:審査所感

伊藤隆一 関東吹奏楽連盟顧問・元陸軍戸山学校軍楽長

審査で感じたこと

菅野圀太郎 関西吹奏楽連盟顧問・元陸軍楽長

P.07

新年への期待

堀内敬三 全日本吹奏楽連盟、関東吹奏楽連盟理事長

新年を迎えて・全日本コンクール随想

館林俊治 関東吹奏楽連盟理事

で、

P.08

戦前の全日本吹奏楽コンクール・ありし日の記録

P.09

本年の全日本コンクール

東京開催に決定 十二月一日予定

P.10

一九五七年を迎えて

広岡淑生 関東吹奏楽連盟

翠濤生 関東吹奏楽連盟顧問・全国楽器製造協会会長・日管専務(大村兼次氏)

で次のページは中部日本吹奏楽連盟創立の話しになるのですが、

第四回の直前にバンドジャーナルは創刊されたんだけど、これら大御所たちの講評をみて、自誌にはどんな講評を載せていたんだろう?これは見てないので解らない。

しっかし、目黒三策氏を差し置いて、三戸知章氏が後継者のような構成…

…あれ?目黒氏の名前がどこにも無いぞ?

広岡淑生氏はバンドジャーナルというか管楽研究会の代表を務める人で…目黒氏は何をやってたんだ?

秋山紀夫先生の名前、大石清氏の名前もない…

…ひょっとして、ここいら辺、どろどろした事情がある?

いや、酷いなと思ったのがバンドジャーナル「創刊に寄せられたことば」の中に、

須磨洋朔氏、

吹奏楽が全国的にこれだけ厚い層を持ちながら本格的な専門誌のなかったのが、むしろ不思議な位でしたが、いよいよ友社で、「バンドジャーナル」を刊行することになり大いなる期待を持ちます。(略)」

って、酷くない?

あるいは「吹奏楽研究」を意図的に無視する何かがあったか。

(ちなみに「バンドピープル」の全国大会講評も、ちょっと興味深いものがあるんですけど、それはまた機会があったら書きます)

あ、バンドジャーナルが創刊するまでの、月刊吹奏楽研究が全日本吹奏楽コンクールを特集した号の表紙をのっけますね。

全号表表紙が第一ページ、裏表紙が最終ページになってまして、

全28ページ

全24ページ(なんか事故があったそうです)

全36ページ

全36ページです。

その中でのコンクール特集ページ、取材記事ページ、綴じ込み付録楽譜ページ、広告ページ等々の比率を、どう見るか。