ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

AutoPageが終了したので引っ越し

コンクール全国大会と合奏能力と個人の演奏能力

響け!ユーフォニアム」の第二話をみていて、途中までよくある話しだと思っていたけど、終盤で新しい顧問が来て部員たちに「全国大会を目指すのか、楽しい演奏を目指すのか」を決めさせるシーンで、恐浮�感じました。

全国大会を目指すのなら、どんな辛いことを乗り越えないといけなくて、どんな楽しいことがあるか、全国大会を目指さないのなら、どんな辛いことを乗り越えないといけなくて、どんな楽しいことがあるのか、それぞれの考える条件を一切出さない。

君たちで決めて〜と軽く始め、部長副部長が戸惑って決を採り始めても何も言わない。決まったら「じゃ君たちが決めたことなので〜」って、これ、教育者として無責任じゃん。

こんなモンスターが顧問を務めるのか…と思いつつ、まぁどうせアニメでファンタジーなんだから、これを起点に上手いこと話しを進めるのかなと思わないでもないけど、それはともかく、

時間が経って気がついたんだけど、

もし私の後輩たちが、私に、

「全国行きたいんです!お願いします!指導してください!」

と言ってきたら、うん、私もこの世界に入って○十年近く経ってますんで、アイディアが無いわけでもない。

もちろんそのアイディアで本当に全国に行けるのかといえば百パーセントの自信はないし、

部員たちが私の言うことを全部聞いて実行して、それできちんと上手く行くのかと言われれば、そんな上手く行ったら世話無いよと言われると思うのですが、

それでも、とっかかりが無いわけではない。

しかし別のことで、

マイルス・デイビスのようなミュージシャンになりたいんです!」とか

「ビリー・ホリディみたいな歌を楽器でやりたいんです!」とか

「ダミア(「暗い日曜日」で有名)みたいな歌を楽器で(ry)」とかだと、

なんてアドバイスをしたらいいか、全く見当も付かない。

「全国大会に行きたい」と「ああいう演奏家になりたい」の違いって、なんでしょう?

私が演奏家を主人公にした小説を読んできた中で、演奏家が「自分だけの音」を掴んだ瞬間を描写した小説って、まぁ二つあります。

栗本薫「キャバレー」で、主人公が自分の無力さに苛まれながら演奏していたらその瞬間が訪れ、演奏終了後仲間たちから祝福される。

秋月こお「富士見二丁目交響楽団シリーズ」で主人公が電車に乗っているとき、ふと(あれがこうしてこうなって、ここをこうしてああすれば…)と解ってきた、しかし電車の中で楽器を取り出すわけにもいかず、家もまだ遠い、そこで駅のホームで楽器を取り出しやってみたら、その通りの音が出た。

この二つの小説の主人公に共通しているのは、学生の演奏者としては、とても高度なテクニックを持ち、凄い演奏をするんです。しかしプロとしては全然駄目という設定。

(で、また別の小説で、その「自分だけの音」を「someting else」と表現していました。お前の技術は凄いよ、でも演奏は俺が負けるとは思えない、何か(someting else)が足りないんだ、てな感じで使われていて)

そんな人であっても、どれだけ試行錯誤しようが、どれだけ優秀な指導者につこうが、いろんな要素が絡み合って、その時が来るまで出来ることをやるしかない。(指導者にもどうしようもない)

それは当然のことなんだけど、いつ「その時」が来るかは解らない、その辛さに耐えられるかどうかという“希望”とか“待ち”とか“やり続ける”とかいろいろ、音楽とか演奏とは関係の無いところに力を注がないといけない。

私が考える「全国大会に行ける練習法(実際行けるか保証は無い)」は、

自分の実力の実感ではなく、他人との合奏で得られる実感で、個人の合奏能力を高めれば、個人の楽器演奏能力はそれほど高くなくても成功するのではないか?という可能性。

私が部活動吹奏楽の指導を頼まれたらそのことを説明して、どんな練習をすることになるかを説明するわけだけど、私が出会ってきた指導者って、とりあえず吹かせてみて、長所が伸ばせるなら伸ばすし、短所を直せるなら直す、そういうやり方に思えるんだけど、実際の所はどんなことを考えて指導していたんだろう?

全国大会常連校の指導者とか上級生とかがどんなことを考えているのかは、想像すらできない。

実際に全国大会常連校の指導者は「全国大会出場」には実績を作って責任を果たしているんだけど、本当にそれだけを望んでいるんだろうか?