吹奏楽の本質と販売、その主観と客観1/2
私は高校時代の部活動吹奏楽で、自分が理想的な人間になれば、プロにはなれなくてもそれなりに満足できる演奏ができるようになるのではないかと考えておりました。
それで社会主義の組織論とか文化論に興味を引かれましてね、いくつか読んで理想に燃えておりました。
結局無理だったんですけど。
諦めたその後、��広告代理店の手法�≠�知りまして、これは面白い!と。
欲望を刺激することで作品の質を向上させたり購買意欲を高めたりするのは、人としての理想とは違う方向なんですけど、「役に立つからやる」のではなく「面白いからやる」という姿勢で、「やればますます面白くなる」という循環に入れば仕事にも繋がりそうだと。(しかしこれは誤解で「やればできる」は現実には間違い、「できれば面白くなる」が真実でした)
でそれからずっと自分が面白いと思うものを探して集め、他人に教え、他人の面白いと思うものを聞いたり探したりと人生歩んできたんですが、この「広告代理店の手法」には実践編がありまして、クリエーターになりたいという人と、面白いものを見つけたいという人の他に、広告業界に入りたいという人がいるわけですね。
コピーライターになりたいとか広告代理店に入社したいという人たち。
で、そういう人たちがいつの時代にも一定数いまして、コピーライター塾とか広告代理店セミナーとかありまして、教科書も作られているわけです。
この塾とかセミナーとか教科書の最初にある定番の一つが、
「ペットボトルの水(商品)が置かれて、これを売る文言を考えろ」。
もちろん業界に憧れて第一歩目を踏み出した素人への課題ですから、本当に売れる文言が要求されているわけではありません。業界の説明をする一環として「まずは軽く考えてみよう」というわけです。
私が「広告代理店の手法」に接して数十年、何度目か解らないこの課題を目にしたつい最近思ったことは、
(…これ、水じゃなくて吹奏楽曲だったらどうなる?)
です。
水は、広告販売業界では結構象徴的なモノでして、もともと人間は生物として水がなければ生きていけないわけですが、水道の水でじゅうぶんなわけです。
それを何故水道代よりも高い値段を付けたお店で買わないといけないのか?それはもう、人が生物として生きていく時代は終わり、人として生きていく時代になり、物理的な水はもちろん必要なんですが、イメージとしての水を飲むことが必要不可欠となった、という説明を受けました。(もちろん人生で一度もお店で水なんて買ったことが無いって人も大勢いるでしょうけど、販売数とか流通量とかがそういう個人を相手にしないほど莫大な量になっているので、細かいことは無しに)
だからそういう業界を目指す若者に「ペットボトルの水」を課題にすることは、生活に密着している水を改めて見つめ直してみよう、という意図なんですけど、それに生活とはそれほど関係のない吹奏楽曲を出してみたら、彼らは何を考えるでしょう?