社会のカラクリ(3)思考法
人の心って奴はとても扱いが難しいモノで、障害があるからあきらめるって場合もありますし、障害があるからクリアしようと頑張ったりもします。あきらめる者から見れば乗り越えようと頑張っている者は理解不能の存在かもしれませんし、乗り越えようと頑張っている者から見ればあきらめる者を切り捨ててしまうかもしれません。
当然立場は違えど理解し合うこともありますが。
モノを考えるとき、基本的に「国語力」という考え方を根本に置かないと相互理解は厳しい物になります。
「国語力」とは別に日本語能力検定試験とかに類する物ではありません。
例えば、
「空を飛んでいるキリンが突然爆発した」
という文章があったとして、この文章は文法的には間違っていません。
それにこの文章が存在するからといって、誰に迷惑をかけているわけでもありません。
文法的にも社会的にも否定されるべき文章ではないのですが、言葉の意味と現実の意味とで考えてみれば、明らかに間違った文章です。
キリンは空を飛びませんし、爆弾でも仕鰍ッられていなければ爆発することはありません。
「国語力」の第一はそんな、言葉と現実の意味の一致を問題にします。
「国語力」には第二の面もあります。言葉と現実の意味のズレをとらえ、その差に別な価値観を見つけだすことです。
この第二の面とは、かの有名な
「チョッキを着たウサギが懐中時計を見ながら『大変だ!遅刻だ!遅刻だ!』と騒ぎながら走っていった」
を思い出してください。
現実のウサギは自分ではチョッキを着ません。飼い主が着せることはありますが。また、時計を見ても意味を理解しませんし、喋りません。「時計を見ながら」ということは前足を時計を持つことに使ってますので、後ろ足で走っていることがわかりますが、これも現実ではありえません。
しかし、だからといって「国語力」第一の能力で
「この文章は誤っている。×だ」
と言ってしまうと、かの有名な作品は否定されてしまいます。しかし、現実にこの作品は世界的なベストセラーでありまして、読んでいる人達は「国語力」の第二の力を理解しているわけです。
文法が正しく、誰にも迷惑をかけない文章があって、
それでも「おかしい、変だ」という才能も世の中には必要ですし、
「おかしい、変だ。しかし、面白い」という才能も世の中には必要です。
しかし、この「国語力」の二面性が日本社会に認められたのは、ここ3,40年くらいの事でして、3,40年前はどんな世の中だったかというと、
SF小説が虐げられていた時代だったのです。
そこら辺の事情は筒井康隆氏の初期作品や、眉村卓氏のエッセイなどに書かれています。
筒井氏の作品に「大いなる助走」という長編がありますが、「直本賞」という文学賞を巡るドタバタ悪夢の内容ですが、作中に二回ほどSF作家、SF小説が、SFだからという理由だけで却下されています。
筒井氏が現実社会の「直木賞」に受からなかった怨みをたまたま文藝春秋の編集者が耳にし、
「その怨みをテーマに書いたらどうですか?」
とャ鴻bと言ってしまったのが運の尽き、筒井氏がこの小説を連載してあちこちから非難されたとき、
「だって編集者から依頼されたんだもん」
と責任を出版社に逸らし、どんどん過激な内容を書いていく。
ところが文藝春秋も器が大きいというか、何考えてんだか、単行本・文庫本のブックカバー装幀に、筒井氏が、現実の「直木賞」から落選させた選考委員達への罵詈讒謗を書いている原稿用紙を絵にして使っているのです。
委員の最初の一文字とか最後の二文字とかが切れて見えないように配置しているのですが、当時の文学を知っている人には誰のことかわかるようになってます。
それ許可したの、出版社ですからね。(^^;)
とまぁ、SFというジャンル、空想科学大人向け小説というものが世の中から徹底的に虐げられていた時代に、筒井氏や文藝春秋クラスの力があって初めて一矢報いることができる時代でありました。
そして現代では「国語力」も変質してバージョンアップしております。
Mr.マリックがTBSの「情熱大陸」という番組に出たとき
「普通のマジシャンは一つのトリックで一つのマジックをするけど、
私はいくつものトリックを組み合わせて一つのマジックにするので、
絶対誰にも見破ることが出来ない」
と豪語しておりました。
私が理想とする思考過程はそれに準じておりまして、いくつもの思考軸を組み合わせ、カラクリ人形のような複合的なロジックの構築を目指しております。
あんまり捻りすぎて「読んでも読んでも解らない」と言われたり、
勢いにまかせて書き上げるので「てにをは」が無茶苦茶になってしまって「読んでも読んでも解らない」と言われることは多々ありますが、
後者はひたすら謝るのみですが、前者で「解らない」と言うのは、どの方面の人でしょうね。
また別の方向で、NHKのBSマンガ夜話でいしかわじゅん氏がその日採り上げたマンガに
「画も下手だし、ストーリーも破綻してるし」
等の発言を連発し、そのマンガのファンから非難を浴びることが多いです。しかし、
「画も下手だし、ストーリーも破綻してるって確かに言っているけど、
それなのに何故このマンガは面白いんだろうね、って意味じゃないか。本当に嫌いな作品だったりどうしようもないクズ作品だと思ったら、この番組で採り上げようかどうかって段階で反対して採り上げないようにするよ!面白いから、好きだからこそ、そう言ってるんじゃないか!」
と、ものすごくウンザリしております。
好きだから誉める、ということもありますが、好きだから文句を言う、欠点を指摘する、そんなモノの考え方も有りのはずなのに、自分の好きなモノを貶めるような言葉を耳にすると、それだけで否定されたと思い、抗議の行動に出る人がマンガの世界に多いようです。
んで創作活動と言語という繋がりで、話しを次に続けます。