ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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東京市中音楽会を調べていて知ったこと

いくつかありまして。

1.ググれば簡単にわかることなんですけど、広目屋さんは現在でも営業しております。

サイトもありまして、その中の

ひろめやの歩める道

に社史が連載されているのですが、実は広目屋さんの中では楽隊を使って宣伝したことには、大して重きを置いていないようなのです。

吹奏楽史考察の中には、広目屋など企業が楽隊を抱え込んだことが日本吹奏楽史のターニングャCントの一つだみたいな記述があるのですが、当の企業にしてみるとそんな意識はない。

これって各国の吹奏楽史を読んでみるとなんとなく軍楽隊・吹奏楽団がその国の建国に大いに協力しているように書かれていても、当の国史には記述がほぼ無いのと似ています。

なんだかね。

ちなみに私が注文した本は「秋田善蔵懐古録」なんですが、記述は

「明治二十八年 音楽隊の組織 芝居の興行 装飾部門の併設」の中で

pict:right日清戦争の幻燈を、芝公園にあった、弥生館で興行し、大変な人気を呼んだ。

これが、広目屋の興行部の始まりであった。又陸海軍の軍楽隊の中から、十数名を引き抜き、山田栄次郎氏を、楽長として、東京市中高等音楽隊と称し、一組十名位を以って、一団とし、一日の招聘料は、十五円から、二十円位で、お得意様の需目に応じたのであった。pict:left

これだけ。

(実は私が市中音楽隊のことを調べようと思ったのは、この山田栄次郎氏についてなんですけどね。全く情報無しです)

2.小関康幸氏のサイトで、

『音楽之友』記事に関するノート第2巻第6号(1942.06)」を読むことが出来ます。その中の

◇民間吹奏楽の創建秘史/池田辰五郎述 堀内敬三記(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.34-39)で

「当日加川宅に集まった人たち」の中に、

「瀬戸口藤吉(B一番クラリネット)現役」

の名を見ることができます。(^^;)

藤吉翁はクラ吹きでありましたか。

先輩たちの会合に呼ばれて出席して、東京市中音楽会に入ることはありませんでしたが、どんなことを思って設立の話しを聞いていたのでしょうね。

3.渡辺裕 著「日本文化モダン・ラプソディ」春秋社刊に情報が無いかと見てみたんですが、無いんですが、その中の

「第四章 洋楽受容史再考」は

「1.「東京中心」的洋楽史観をこえて」というテーマなんですよ。

ふーんふーんと読んでいきますと、その「1.」の最後のほうに

pict:rightたとえば東京フィルハーモニーは最初から東京にあったわけではない。その前身は松坂屋、さらに遡ると、いとう呉服店の少年音楽隊であり、その本拠地は名古屋であった。少なくとも、大阪、名古屋といった地方都市をみる限りでは、昭和初期くらいまでの洋楽文化は今と比べるとはるかに「中央集権的」的でなかったpict:left

ふむふむなるほどです。

しかし

「2.大阪音楽協会のレパートリー」になるといきなり

pict:rightこの資料集に出てくる「管弦楽」の最初の存在といえるのが1906(明治36年)年に設立された「大阪音楽協会」であるpict:left

…いやま、いいんですけどね。東京中心的洋楽史観に異議を唱える人が、管弦楽中心史観には豪ほども疑問を持つことが無いのですね。

細川周平氏は塩津洋子氏の「関西洋楽文化史<II>」より関西地方における市中音楽隊の第一号を1891年設立の東京近衛隊と大阪第四師団の退役者から成る“遊楽会”として、翌92年に設立された“神戸音楽会”(“神戸市中音楽会”?)が刺激となり

pict:right彼らが成功を収めたとなると、後は簡単だった。第四師団のベテランは次々楽隊を組織したpict:leftとあります。

(引用本は昨日と同じミュージックマガジンの「日本の券\100年97です)

まぁねぇ、クラシック音楽は高尚なものだ、という世間の認識がどーのこーのという議論があって、それとは全く別な次元で吹奏楽クラシック音楽に入れるべきか?という議論があって、管弦楽中心史観の人は吹奏楽を、さらには市中音楽隊を入れたくないのでしょうかねぇ。

4.ちなみにその細川氏の文章の中で、

pict:rightたぶん市民にとっての洋楽受容として最後に軍楽隊が現れるのは、1906年明治39年)に誕生した日比谷公園音楽堂での月例演奏会であっただろう。この演奏会は震災まで続き、多くの人々をあつめた

東京市長尾崎行雄は市中音楽隊を除き、陸軍と海軍にだけ出演許可を与えた。pict:left

とあるのですが、この“市中音楽隊を除き”とは、どういう意味なのでしょう?

市中音楽隊は許可したが、陸海軍軍楽隊以外の楽団には許可を与えなかったのでしょうか?

市中音楽隊を排除して、ということでしょうか?

というのも「秋田善蔵懐古録」の中に

pict:right明治36年)六月一日、東京日比谷公園が完成、その開園式が行われた。その式場の一切を、請負人は二千円くらいの工事ではあったが、これを無償で引うけ、広目屋は、中野茂次、橋本伊三郎の両名が装飾部の担当で工事を施行させたpict:leftとあるのですよ。装飾会社の競争の犠牲だそうで。

その広目屋お抱えの楽隊は演奏が許可されたのでしょうか?

もし不許可であったなら、官尊民卑の思想がありはしなかったか。

謎です。