ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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夢を奏でること

深町秋生のベテラン日記さんのエントリ 「TBSの自己実現。(相手を殺して)明日にきらめけ。」の中の pict:rightTBSという放送局は人間対人間という「闘い」をほとんど描こうとはしなかった。夢をかなえるか、かなえないか。サクセスするかしないかというあくまで「自己実現」の場として描いてきたと思う。pict:left を読んで、あぁ、なるほどなぁ、と。 吹奏楽も、まぁ「自己実現」だ。コンクールに出る、コンテストに応募するってことは、誰かさんの夢を潰しに行くってことなのに。何をどう言い訳しようが。 相手だって土俵に上がっているんだから、こっちの夢を潰しに来ている存在だから、お互い潰し合うのは仕方のないことなんだけど、その競技者とか応募者を「人間」として見ているか、競合者とか障害物程度の「記号」として見ているのかというイマジネーションの範疇で見てみると、演奏家としてどっちが「らしい」のか。 pict:rightあの映画でもやはり闘いはなく、あるのはアメリカンウェイな自己啓発だけだった。闘いを描くことが目的ではないため、敵が何者であるかもろくに語られず、粛々と進行しなければならない高校野球という場で、教師が長々とタイムを取って生徒たちに説教をかまし、堂々と遅延行為を行いつつ、「布団売るぞ! 洗剤売るぞ!」というマルチ商法の集会みたいに自分たちがひたすら盛り上がっていたpict:left pict:right野球でもボクシングでも、試合というのは相手の夢を砕くことなのだが、そうした悲劇性を消し、ときにはルールさえ無視して「夢をかなえる自分たち」という不気味な物語をつむぎつづけていた。自分たちが盛り上がるためなら他人や法律などシカトしてもかまわないというカルト宗教みたいな臭いがした。ここで大事なのは「説教する」「みんなで大声をあげる」「勝利に号泣する」なのであって、つまるところ競技はなんだっていいのだ。pict:left まぁ吹奏楽コンクールを舞台にしたお話しって、流石にルール無視は無いだろうけど、演奏の愉しさに12分(だっけ?)は短すぎないか?(進行の都合だってのは解ってますが) コンクール吹奏楽が人減らしをしてる(新規参入者数は保てても持続する人の数が減ってく)理由は、“競うこと自体”よりも“競い方”にあるというところかな。