ぽかぁんとしてしまうこと:Hatena版

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いわゆる「異国趣味」とは別だと思う。

都甲幸治 「偽アメリカ文学の誕生水声社刊は、なんか凄そう。

例えば吹奏楽の世界において、日本人が作曲した吹奏楽曲は「邦人作品」と括られ、アメリカの吹奏楽曲、ロシアやドイツの吹奏楽曲と言っても、基本的に「その人が生まれ育った国」を指す。だからPercy Graingerはどうなんだ!という議論もあるんですけど、まぁそれはそれとして、

私が大学生の時とった講義「アメリカ文学研究」だの「中国語」だのでその国の文学作品がテキストとして使われたとき、私の誤解かもしれないけど、その国の雰囲気が感じられたのですね。

もちろん行進曲の分野ではドイツらしさとかイギリスらしさとかフランスらしさとかというものはあって、却って日本らしさってなんじゃらほい、とくにコンサート・マーチは、という議論が昔あったんですが、さて最近は?となりますと、ねー。

今でもそういう論点があるのかしら。

んで、日本人アメリカ文学研究家が、日本にいるうちは日本人にアメリカ文学の紹介、アメリカの代表のような位置にいたけど、それがアメリカに行ってしまったらそんな立ち位置が消滅してしまい、

「何が悲しゅうて日本人にアメリカ文学を解説されないといけんのだ?日本人なら日本文学の道があるだろーが」

と、優れたアメリカ文学研究の実績があり、○○文学研究の講座を持っている、アジア系アメリカ人に言われたら、さてどうするか。

そして無視できない村上春樹の存在。

アメリカ文学の要素を日本の文学界に持ち込み、アメリカ人は愚か世界中の読書家に受け入れられていて、はて村上春樹はJ文学の範疇に収まる人なのか?という問い。

クラシック音楽で日本人が欧米で活躍しているのは事実ですが、はて、こういった論点があるんだかないんだか。