初めてのトラックバックです。(上)
「えこまの部屋」という、えこまさんのブログに
非常に興味深いことが書かれていましたので、そのことについてです。
「縄綯と梟(Nawanai & Hukurou)」という書き込みです。
最初にお断りしなければいけないのは、私は「狂言」の舞台は、人生で
2,3回は観た事あるかな?という程度でありまして、いつ観たかも
定かではありませんし、「吉本新喜劇」にいたっては舞台を観た事は
ありませんし、テレビでもじっくりと見た事は無いです。
ですので「狂言」の本質や役者達に対して、真っ新な状態です。
ですので私の勝手な思い込みの可能性がかなり高いことをお断りしておきます。
えこまさんの文中の茂山逸平氏が言ったという、
>>狂言はひらたくいうと、室町時代の「吉本新喜劇」のようなもの。
>>娯楽なのだから、肩肘張らずにリラックスして楽しんでください、
これです。
「吉本新喜劇」の「新」とは、「狂言」を「旧」とした喜劇というネーミング
ではないのでしょうか?「狂言」“だけ”ではないでしょうけど。
違ったらすいません。
でも万が一私の推測が当たっているとしたら、
「狂言はひらたくいうと、「吉本新喜劇」の大先輩で室町時代に生まれた」
と言うべきなのではないでしょうか?
クラシック音楽の世界ではよく「○○の再来!」という言い方をされて
売り出される奏者がいますが、実は当の○○は誰の再来でもなく
初代○○であったわけで、その一点において「○○の再来」君は
絶対的に「○○」には及ばない、というランク付けがあるそうです。
また歌謡界の大御所××さんは、番組が若手歌手を「第二の××」と
紹介したところ、
「じゃぁ第一の××は、もういらないわね」と言って帰ってしまったとか。
まぁ言葉遊びととるか、プライドをどこに置くかと考えるかは人それぞれでしょうが、もうちょっと深刻な問題として、
茂山逸平氏は「吉本新喜劇」がメディアとどう関わってきたのかを承知の上で
喩えに使ったのでしょうか?
関東の倹lは他人を馬鹿にする事で笑いをとり、
関西の倹lは自分を馬鹿に見せる事で笑いをとる、と言われています。
舞台の上、ブラウン管の中という非日常的な世界の中で、という条件でですが、「吉本新喜劇」の人達は「笑って貰う」と「嗤われる」の境目で厳しく藝を磨いているのだと思うのですが、
狂言の人達は「嗤われる」かもしれない事を覚悟しているのでしょうか?
その結果がメディアの露出度、扱われ方だと思います。
つまりバラエティ番組などで「お笑い倹l」は倹lとしての立ち振る舞いを期待されて出演を求められますが、「狂言師」はバラエティ番組に文化人としての扱いを求めているように思うのです。
猿蟹合戦で蟹がせっせと柿を種から実まで育てたのに、猿が実だけをとってしまう。
同じように吉本新喜劇が旧喜劇との違いを出そうと一生懸命やってきて
その結果が出たとき、狂言の人が「私たちも吉本新喜劇と同じ」と自己紹介をする。
もはや吉本新喜劇は説明不要の存在であり、狂言は説明が必要な存在であると、
狂言の人達が自己規定をしてしまうわけで、それでいいのでしょうか?
でもまぁそれは私の日常とは関係のない「狂言」自身の問題。
もっと考えさせられたのは、えこまさんの書いた
>>つまり、大人になると頭でっかちになるので「今、ここは笑うべきところか?
>>ここは笑っていいところか?」と周囲を見渡しながら笑うのだそうだ(笑)。
という指摘です。(下に続く)